「渇望」
<登場人物>
・義円(ぎえん)
時代:室町期
少年の目に、父は偉大だった。
いつも多くの者を従え、かしずかれ、自信に満ち、そんな姿が少年にとっては誉れであり、憧れだった。
ある時、少年は侍女に尋ねたことがある。
「なぜ、いつも多くの人が父上様についていくの?」
「それは偉い将軍様で御座いましたから――」
少年は、その時初めて将軍という存在を知った。
幼きながらも、将軍というものの強さを、偉大さを感じていた。
その憧れは、時に母の死からも少年の関心を奪った。少年がまだ五歳に満たない頃に母は逝去した。
横たえられた母親の亡骸の枕頭では、兄が涙に暮れていた。その横で少年は並ぶように座り、兄の顔を眺めている。
「なんなのだ、あの態度は!」
兄は憤っていた。
横たわる母の容貌はやせ細り、まるで別人のようだった。
それよりも、少年の興味を惹いて離さなかったのは、部屋を訪れ、母を一瞥しただけで去った父だった。
「きっと今頃は、さぞ大飲しておろう」
酒宴を開いているに違いないと、兄は情けなくも、吐き出すように責めた。
兄の腕が少年の右肩に置かれ、引き寄せられた。きっと兄は、自分と同じように嘆いているだろう弟を慰めるつもりだったのだろう。
だが少年はその腕からスルリと抜け出すと、戸口までトコトコと歩き、父が去って時間が経った彼方を遠く眺め、父のことばかりを思った。
憧れは当然のように、自身の将来像へと通じた。
少年は、自身も父のように将軍になりたいと思うようになった。
しかし、現実は成長してく少年の思惑通りにはいかなかった。将軍職はすでに少年の兄が継いでいた。さらに少年自身は十歳になると青蓮院へと入室させられた。父の意向で、少年は僧籍に入る道筋を付けられたのである。
それでも少年はまだ将軍への想いを諦めてはいなかった。己の優秀さを父に知って貰えれば、自分を将軍にしてもらえると本気で信じていた。少年は確かに優秀だった。
だが少年の想いをよそに、父は少年と同年の、異母兄を寵愛するようになっていた。
異母兄は少年と同じように梶井門跡に入室していたのを、父が応永十五(一四〇八)年に還俗させていた。
それは少年が得度を受けるにあたり、父が住まう北山邸を訪ねた折。
少年は廻廊にて異母兄とすれ違った。少年は異母兄に道を譲り、頭を下げた。顔を上げたそのすれ違いざま、異母兄は少年を見て不敵な笑みを浮かべた。その笑みは競争に勝った者が優越を誇り、敗者を侮蔑するものだった。少年は、そう受け取った。
少年は怒りに体を硬直させ震えた。
――偉いのはお前じゃない!偉いのは父上だ!
少年は異母兄になんの偉大さも見なかった。
それでも、少年は強い敗北感だけを心に刻みつけた。
堂内に複数の、低音ながらも重厚な読経の声が響いている。
戸口から早朝の薄日が差し込んでいる。
部屋は清廉な、澄んだ空気に満たされていた。
絢爛な彩りの壇の前、師僧と向かい合うように少年は瞑目し合掌していた。合掌の手は僅かに震え、見る者は少年の緊張と取っただろうか。しかし、少年の心を真に震わせていたのは、憤懣たる怒りであり、恐怖だった。
幾多の頭髪が刃によって断たれるジョリ、という響きが伝わり、断たれた頭髪が受け紙にハラリ、と落ちる音が静かに沈む。沈んだ音は少年の内部にて望外な大音となってこだまし、より感情を高ぶらせ、瞑目し合掌する腕を振るわせた。
――父上!なぜ、私ではないのですか!
――私を将軍に!
――私を将軍に!
――私を将軍に!
――!
少年はこれより、仏の道に入る。
仏に仕える身となるのだ。
俗界とは掛け離れた世界。
だが、少年は一心に願うのである。それは渇望といってもよいものであろう。
――いずれは私を将軍へとお導き下さいませ!私こそ父の如き、強き将軍にふさわしい!
仏の足下に縋りつくように。
全ての髪が落ちた。
十四歳になる年の春。
少年には『義円』という名が与えられた。