「京都と管理人~その2~」

 

 「そうだ、京都にいこう!」
 JR東海のキャッチフレーズそのままに京都に移転したのは25歳の時だった。理由は・・・まぁ、色々あるが、行き先は京都しかなかったように思う。

 高校の修学旅行では一切の興味を示さなかった管理人も、その後「信長の野望」というゲームに出会い、まず戦国時代の歴史小説に嵌まり、やがて司馬遼太郎さん、池波正太郎さん、津本陽さんなど作品に嵌まり、作家の作品をおっていけば、その中には幕末を扱った作品があり。そこで出会ったのが新撰組。司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」「新撰組血風録」、池波正太郎さんの「幕末新撰組」、津本陽さんの「虎狼は空に」。それまで新撰組という名は知っていても、個々の隊員の事までは知らなかったので、一々興味深かったのを覚えている。特に当時は漫画の「るろ剣」が流行っていたので「斉藤一って、本当にいたんだ!」と変に感動したりして。
 そんなこんなで、新撰組の活躍の舞台である京都に興味を抱くのは必然的な流れのように思われ、ちょいちょいと京都を訪れては新撰組の史跡を回ったりしていた。

 住んだのは、八条。京都駅八条口から出て徒歩15分ぐらい。通り路には東寺や六孫王神社があり、よく手を合わせたりした。
 よし、折角京都にきたのだから、片っ端から回るぞ!という意気込みはどこへやら、住んだら住んだで「その内行けるし」と思い、ことのほか目的を達成できず。いつしか生活に追われる日々となり、抱いた感想が「なんだ、京都も普通の街じゃん」。考えて見れば当然の話で、そこに生活基盤を持つ人々がいれば、どこでもあるような生活の時間は流れているわけで(ジャスコ洛南店にはお世話になりました・・・・・・)。ところが、どうもすぐに知ったかぶりをしてしまう管理人の悪い癖はここでも発揮され「古都とはいっても、今じゃ普通の中堅都市だな」(京都にての物語~東寺~にもこんなような台詞がありますが・・・)と、まるで京都の全てを知ったような気になってしまったものだ。まるで餅を見て「これは餅だ!」と威張っているようなもので・・・いやはや。
 まぁ、それだけ京都という街に『幻想』を抱いていたということになるかもしれない。
 結局京都には一年間だけ住んでいた。その後、都合で現在住んでいる大阪に移った訳だが、その後も京都には頻繁に訪れている。京都での日常生活を離れる事によって、再び『幻想』を見ているのかもしれない。けれど、僅か一年ではあったけれども、実際に京都に住むことによって(山鉾町辺りに住むと、また違った世界があるのかも知れないが)、現実と幻想の区別が若干なりとも付くようになり、現実の上に成り立っている幻想を認められるようになったのかもしれない。

 岡倉天心は芸術鑑賞について「茶の本」の中で次のように記している。
 『宗匠小堀遠州は、みずから大名でありながら、次のように忘れがたい言葉を残している。「偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。」傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。~略~われわれは、手のつけようのない無知のために、この造作のない礼儀を尽くすことをいとう。こうして、眼前に広げられた美の饗応にもあずからないことがしばしばある。名人にはいつでもごちそうの用意があるのだが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている』(村岡博訳)
 この心は、芸術に留まらず『鑑賞』という言葉そのものに通じている心であるように思われる。
 本来、道端に咲く一輪の花にも美はあり、アスファルトの隙間に顔を出した大根にも根性はある。
 そういう意味では「京都」という地域に限定する必要なないのだろうが、しかし、ある意味でのご馳走はやはり京都にしかないのである。それが長年の日本の中心であった歴史であり、文化である。 そしてそれが、管理人の抱く『幻想』の正体でもある。

 今後とも、僅かなりとも味わう力を身に付け、京都というご馳走を味わっていければよいと思う。
 そして京都の幻想の中にも、現実に繋がる「何か」を見出していければよいと思う。

(2007/12/17)

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