「秦河勝」

 

 秦河勝(はたのかわかつ)と聞いてピーンとくる方は、まず聖徳太子の右腕としての河勝を連想するのではないだろうか。
 聖徳太子はご存知の通り推古天皇のもとで摂政を務め、十七条憲法や冠位十二階を制定し、また仏教を積極的に取り入れ日本の発展に努めたと伝わる人物で、河勝は財政、軍事両面から太子を補佐したという。
 さて、その河勝がどう京都と繋がるかというと――繋がるも何も、京都、かつての山背の地こそ河勝の本拠地だったのだ。平安京の大内裏が造営された地は、元々河勝の邸宅跡であったと伝わる。

 そもそも河勝で有名な秦氏とはどんな存在だったかを大雑把に説明すると、かの秦の始皇帝の末裔とも伝わる新羅系の渡来集団で、分布は日本各地に広がる。山背に進出した秦氏に限っていうと、灌漑工事として桂川に葛野大堰を築いたのは有名な話で、土木や養蚕、機織などの優れた技術を背景に山背の発展に大きな影響を与えた。また財政的に豊かであった秦氏は、長岡京や平安京造営に財政面で大きな役割を果したと伝わり、その影響力は秦氏縁の寺社である松尾大社、伏見稲荷大社、広隆寺などを通して現代にも名残を留める。
 河勝はそんな山背秦氏の族長的存在であったと考えられている。現在も地名に残る太秦という名称は秦氏の族長を意味するともいわれ、右京区太秦の地にあるのが河勝が聖徳太子より仏像を授かって建立したと伝わる広隆寺だ(当初は蜂岡寺ともいわれ、別の地に建立されたが後に移転した)。

 聖徳太子の死後、河勝は斑鳩を離れて山背に戻ったと考えられている。それは表舞台から去るということでもあるが、そんな河勝が再び表舞台に登場する。それが皇極3年(644)に起きた常世神(とこよがみ)事件だ。
 事件を簡単に説明するならば、駿河の富士川を中心とした地域で常世神と呼ばれる虫を祀ることが流行し、その流行は大和にも及んだ。仕掛け人は大生部多(おおうべのおう)という人物で、巫覡(ふげき)と共に、常世神を祀れば老いたる者は若返り、貧しきものは豊かになると扇動して人々に財産を投げ打たせた。今でいえば怪しげな新興宗教といったところだろうか。が、残念というか当然というか、常世神を祀った効果が現われるどころか損をする者が続出し、これを見かねた河勝が大生部多を懲らしめて混乱を鎮めたという。
 こうして河勝はちょっとした活躍を見せたのであるが、一説によるとこの同じ年、河勝は山背を去って赤穂の坂越に向かい、その地で没したというのである。赤穂に向かった理由は蘇我入鹿の迫害を避ける為ともいわれている。
 ところで常世神事件について、中村修也さんは著書「秦氏とカモ氏」の中で、蘇我氏と巫覡の繋がりについて記し、その関係から常世神事件に河勝対蘇我氏の対立構造を見出している。
 そこでだ、上記二つの説を乱暴にも繋ぎ合わせてしまうならば、常世神流行に深く関わっていた巫覡の裏に蘇我氏の影を見出し、蘇我氏に対して穏やかならぬ心情を抱いていた(常世神事件が起こった年の前年に、河勝が仕えていた聖徳太子の子息である山背大兄王一族が蘇我入鹿に襲撃され自害している)河勝は、常世神流行を阻止したが、そのことによって蘇我氏が河勝に圧力をかけてきた為、身を守る為に山背を去って赤穂に向かったということになるだろうか。
 これまたいつも通りの空論である。現に京都や大阪にも河勝の終焉の地や墓と伝わる場所が残っている。が、こう考えてみるとなんとなく河勝の人間性がにじみ出てはこないだろうか。当時権力の絶頂にあった蘇我氏に立ち向かう姿からは、肝の座った男気のある姿が浮かび上がってくるようだ。

 聖徳太子が50歳で世を去ってから22年後に常世神事件は起きている。太子が16歳で出陣した際にも従軍していることから、太子より年少であることは考えにくく、そうすると常世神事件当時、河勝は70歳台中盤から後半であったと考え、当時としては珍しいぐらいの長寿をまっとうしたようだ。
 なお、京都と河勝にはもう一つの繋がりがある。明確にいえば京都と限定するものではないが、河勝は猿楽の祖と伝わっている。猿楽といえば、現在に伝わる日本芸能の能楽の源だ。

 秦河勝は、京都がまだ京都ではなかった頃、一時期をその支配者として君臨した。一見すると現代の京都には関わりがない様に思えるが、その大きな影響力は時代を経てもなお脈々と受け継がれている。

 関連作品:京都にての歴史物語「供華

(2009/02/15)

<秦河勝縁の地>

 ・秦河勝が建立した蜂岡寺が始まりと伝わる。
  広隆寺

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