白峯神宮

「白峯神宮」

 

 『霊験あらたか』という言葉がある。辞書で調べてみると、
 霊験:「神や仏に祈ることによって得られる不思議なご利益」
 あらたか:「神や仏の霊験がはっきりあらわれているようす」
 となっている。
 信心の裏返しにある望みは、つまりはご利益であり、どうせ祈願するならば霊験あらたかな神や仏に祈るのが効率的というものだ。もちろんこれは一方から見れば大暴論の批難を受けるだろうが、効率化こそが尊しとされるこの時代の思考に沿った、これもまた人の心情ではないだろうか。特に普段から頻繁に訪れることのできない旅行者にしてみたらピンポイントを狙いたいものだ。
 あらたかさの尺度。つまり、いかにご利益を表してきたか、表した記録が残っているかがポイントとなる。そういう意味では長年の都であった京都こそ記録の宝庫であり、霊験あらたかな神社仏閣が多く存在すると言ってよいだろう。
 では、そもそも霊験(ご利益)はどのように信者に期待され、そして期待値の高さはどのように決められるのだろう。単純に考えれば、祈願する主体、神様の力量に求められ、大きな力を持った神様ほど、大きな霊験を示されるという理屈になるか。では、神様の力量とはどのように求められるのだろうか。もちろん、一概に語ることはできないが、実在した人物が神様に祀られたケースに絞ってみば、該当の人物が祀られる以前の行い、及び世間の評価が大きく左右してくると考えられる。例えば菅原道真。生前は学者としての評価があり、また死後は怨霊となって人々に恐れられた。その為、今や天満宮は日本屈指の学問の神様であり、怨霊として振った力が、そのまま霊験の強さの裏付けとなっていると考えられる。つまり、祀られる以前に大きな何らかの力を誇示した人物ほど、人々に大きなご利益を与えてくれると期待させるのだ。
 そういった意味で、京都には菅原道真を祀る北野天満宮にも劣らない、強い霊験を期待させてくれる神社がある。創建が西洋文化にかぶれた明治期の直前ということもあり、霊験あらたかな記録は乏しいが、それでもご利益の期待値は二重丸?それこそが崇徳天皇を祀る白峯神宮だ。

 創建は慶応4年(1868)。発願は孝明天皇であったが、実現前に孝明天皇は崩御。明治天皇によって遺志が引き継がれ、讃岐は白峯陵より崇徳天皇の霊を奉じて創建された。
 また明治6年(1873)には淡路の廃帝と呼ばれた淳仁天皇の霊を淡路からの奉じて合祀した。なお、淳仁天皇は弓削道鏡の出現により権力の座から遠ざけられ反乱を起こした藤原仲麻呂に連座し、淡路に流された悲運の天皇だ。

 保元元年(1156)、武士の一軍が崇徳上皇の白河北殿に夜襲を仕掛けた。京都の市街地を戦場とした初といってよい騒乱、保元の乱が勃発した。
 崇徳は鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。しかし、母である待賢門院藤原璋子は鳥羽天皇への入内前より鳥羽天皇の祖父・白河上皇の寵愛を受けており、白河上皇の御落胤という説が根強い。その為、父である鳥羽天皇との関係も穏やかではなく、崇徳天皇譲位後の後継問題に火種を残すこととなった。
 その火種が、鳥羽院崩御後に摂関家内部の藤原忠通、頼長兄弟の対立と結びついたことにより華々しく発火したのが保元の乱であり、崇徳上皇・頼長の元には源為義・為朝親子、平忠正等か参じ、後白河天皇・忠通の元には源義朝、平清盛等が参じ、戦いが繰り広げられた。
 戦いは上記した崇徳上皇の白河北殿夜襲により勝敗を決した。軍配は天皇方に上がり、頼長は戦傷死、為義・忠正は斬首となり、崇徳上皇は讃岐国への配流となった。
 配流後、崇徳上皇は仏教に傾倒し五部大乗経の写本を作るなどの生活をしていたが、その写経を都近辺の寺にも納めたいと朝廷に嘆願したところ、呪詛の恐れがあるとのことで許されず、この沙汰に憤激した崇徳上皇は髪の毛や爪を伸ばし放題にし「生きながらに天狗の姿」になったと言われ、更に舌先を食い切って、流れる血をもって「――日本国の大魔縁となり、皇を取つて民となし、民を皇となさん」と突き返された写本にしたためたという。
 讃岐国へ配流となってから9年後の長寛2年(1164)、崇徳上皇は46歳で崩御された。
 崇徳上皇の崩御から数年後、都での政情不安、また保元の乱で崇徳上皇と敵対した後白河院・藤原忠道の周辺で次々と亡くなる人が出るに及び、崇徳院の怨霊が原因と囁かれるようになった。源頼朝をして「日本一の大天狗」と揶揄された後白河院も大いに恐れを抱いたようで、ただ「讃岐院」としていた追号を「崇徳院」と改め、また崇徳院の御霊を安んじるべく白峯陵近くに頓証寺(現在の白峯寺)を建立した。
 崇徳院の怨霊がいかに恐れられていたかという一端を伺わせるのが、愛宕山に集った怨霊達の上座にあったのが崇徳院だったという伝説だ。崇徳院こそ怨霊の首領と考えられていたのだ。まさに、日本史上最強の怨霊といっても過言ではない。

 その霊験、いかほどのものか!

 さて、ここで思いつきの戯言を一つ。
 崇徳院が誓願したという「――日本国の大魔縁となり、皇を取つて民となし、民を皇となさん」という言葉。そして崇徳院の御霊を白峯陵から都に奉じた明治天皇。
 実は明治天皇には巷に流布する替え玉説があり、その替え玉となった大室寅之祐という人は南朝の後胤という説もあるようだが、当時としては民。明治天皇(睦仁皇子)は弑逆され、大室寅之祐が明治天皇に成り代わったという筋書きらしいが、まさに崇徳院の誓願通り?
 ここで創作的推測をするならば、天皇すり替えという大それたこと進めた人物達にしてみれば皇統へ対する後ろめたさ=皇統が祟ることの恐れがあったのかもしれない。そこで怨霊の首領たる崇徳院を厚く奉じて守護神とすることによって皇統の祟りを抑え込もうとしたのではないだろうか。なにせ自分らのしたことは、崇徳院の誓願を叶えたことにもなるのだから。
 こうして白峯神宮は創建された・・・という筋書きはどうだろう?

 と、まぁ戯言はさておき・・・
 崇徳院の霊験を強調してみたが、白峯神宮といえば、どちらかというと球技の神様として有名なのが現状だ。理由は境内が元々飛鳥井家の邸宅跡であり、飛鳥井家が蹴鞠をお家芸とした家柄だった為に、境内末社の地主社に鞠精大明神を祀っている。この鞠精大明神こそ蹴鞠の神様と伝わり、蹴鞠⇒サッカーぽい?⇒球技全般の神様でよくね?と拡大解釈をされていったと思われる。
 更に別の末社の伴緒者には保元の乱の際に崇徳院側で戦った源為義・為朝親子が祀られていて、特に為朝は武勇を謳われた武士であった為に、武道の神様として信仰を集めている。
 球技に武道⇒スポーツ全般でよくね?と拡大解釈されたかどうかは知らないが、境内の社務所では日本唯一(?)のスポーツお守り「闘魂守」を求めることができる。
 個人的に闘魂といえば、アントニオ猪木の闘魂注入を思い出してしまう。
 闘魂注入と闘魂守。
 アントニオ猪木に闘魂注入をしてもらうのは機会を得ること自体難しくなかなか叶わないだろうが、白峯神宮であれば気の向くままに訪れ、アントニオ猪木の闘魂注入に勝るとも劣らない?崇徳院の霊験を後ろ盾とした闘魂注入を受けられるかもしれない。
 いっちょ気合を!と思う人は訪れてみるのも一興で。

 関連作品:京都にての物語「落とさないのを良しとする

(2011/09/07)

白峯神宮ホームページ⇒http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/

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