さくら

「2008桜見物(3)」

 

 平安神宮を出た後、應天門前の道路を西へと向かう。右手の平安神宮の駐車場が切れる辺りで、正面の左手から流れる琵琶湖疏水を越える橋を渡り、その後は疏水沿いに更に西へと向かう。
 疏水の水上を、桜見物の観光客を乗せた舟が行き交う。なるほど、さぞかし船上から眺める桜も綺麗だろうな、と思うのだが、基本的に金を使うことを厭い、無料で楽しむことを最上の喜びとする管理人としては、まぁ別に船から見ようと地上から見ようと一緒かな、と自分に言い聞かせて、翌年以降もあの船には乗るまいと思ってみたりした。ちなみに、どう考えてもあの船のスピードは速すぎるぞ。別に手漕ぎでやればとはいわないが、もう少しゆっくりと桜見物を楽しませてあげたらいいのにと思ってしまった。花見にせわしなさは無粋だろう。
 と、そんなこんなで管理人は歩くの無料の公道を、美しく飾る桜の並木に目を奪われながらテクテクと歩くのだった。円山公園、平安神宮ともう桜はお腹一杯になっている筈なのに、別のところで見る桜は別腹、といわんばかりに、その色白の仄かな赤みを宿す花弁は容赦なく視線をかっさらっていく。
 どうも管理人の個人的好みとして、桜と水の寄り添う姿の絵面に惹かれてしまう。まぁ、それを言ってしまったら別に琵琶湖疏水以外にもそんな光景は山とあるのだろうが、ただこの日に管理人が訪れていたのは琵琶湖疏水であってそれ以外ではないので、この日、桜と水流との重なった姿に惹かれた感情は、琵琶湖疏水沿いの桜並木に対して抱いた偽りなき感情といえるだろう。もう桜で一杯になったデジカメのメモリーに、更にたらふくと桜の画像を含ませてやった。
 鴨川に出る手前で、ついに桜並木は途切れてしまった。京都に着いた時とは異なり空には雲が広がっていたが、管理人の記憶の中には多くの美しき桜の姿が広がっていた。

 琵琶湖疏水の桜見物感想。
 基本的に道路の並木道なので、ゆっくり歩きながら流れるように次から次へと現われる桜を楽しみ、またその連なりに奥行きを感じて桜が天井を敷き詰める桜回廊という想像力を少しだけプラスした楽しみができるのではないだろうか。立ち止まってはいけない訳では当然ないのだが、管理人の個人的感覚としては移動しているという事が前提の上で、見て、感じる一時の過ごし方が、この琵琶湖疏水の桜並木の楽しみ方としては適しているのではないかと思う。
 という事は「移動経路に琵琶湖疏水はお勧め!」という事になる。どんなお勧めの仕方だろう・・・

 こうして2008年の桜見物は終わった。まぁ、人の多いこと、多いこと。一方はこれにつきますな。
 さて、本題の桜だが――まぁ、桜は桜だ。別に京都にばかりあるものではないので、桜見物ならば京都にこだわる必要はない。のだが、やはり京都の桜は『京都』の桜なのだ。『京都』というブランド力が、なんといっても強力な集客力を持っている。それと併せて今回感じたことだが、桜一つでも、様々な見せ方をしてくれるのが京都の桜ではないだろうか。日常に根付いた桜。自然の力強い桜。人々に楽しみを与えてくれる桜。煌びやかに着飾ったモデルのような桜。歴史的付加価値を伴った桜――等々。そういう意味では、京都の地に降り立って眺める桜の数々は、とても見応えがあるものと感じさせる力があるのかもしれない。
 管理人も、お腹一杯。

(2008/04/30)

京都にてのあれこれへ トップページへ