「源為朝」

 

 世に悪童と呼ばれた人物は多いが、この悪童は規格外。その名は源為朝。
 『保元物語』によれば13歳にして傍若無人が過ぎ、これでは都に置いておけないと父である源為義に勘当されて九州へと追放されてしまった為朝。親元を離れて少しは反省し行状が改まるかと思いきや、逆に羽目が外れたかのように、今度は乱暴狼藉どころの話ではない、九州各地で合戦、城攻めを繰り返し、3年の内に九州を平らげ、鎮西総追捕使を自称するようになったのである。こうなると一端の猛将であるが、悪童は悪童のまま、乱暴狼藉が祟って香椎宮の神人により朝廷へ訴えが出され、ついには都へ出頭するよう宣旨が出されてしまった。しかし、そんな呼び出しに大人しく従うような悪童ではない。宣旨を無視していたら、今度は見せしめとばかりに父である為義が検非違使の任を解かれてしまった。いやいや、そんな為朝を勘当し九州へ追放した張本人である為義がどうなろうとも悪童は無視するだろう――と思いきや、実は父への情は厚かったらしく、悪童もここに至って悔いて上洛の途に着いた。
 上洛した為朝。驚くべきは成長したその体躯である。この時18歳になっていた為朝の身長は七尺ほど(約2m10cm)で、強弓を引くといわれる腕は左腕が右腕よりも4寸(12cm)長かった。ちなみに、なぜ左腕が長いことが注目すべきことかというと、弓を引くのに張り出す左腕が長ければそれだけ弓を大きく引くことができ、つまりは放つ弓の威力が増す訳だ。まさに規格外の悪童は、規格外の戦闘能力を有する武人に成長していた。

 そんな為朝の武力を世に知らしめた戦いが「保元の乱」だ。
 為朝が上洛した翌年の保元元年(1156)、鳥羽法皇の崩御を機とし、崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化して、ついには武力を以ての対決となった。為朝は為義に従い上皇側へと参じ、一方の天皇方には為朝の長兄である義朝や、平清盛等が参じた。
 九州での猛勇を知られていた為朝に左大臣藤原頼長が作戦計画を問うと、為朝は多くの経験から躊躇なく夜討ちを進言した。しかし頼長は武士同士の私戦いではないとを重んじてこれを却下した。
 ところが一方の天皇側は義朝の進言を受け入れて夜討ちを決行した。これに為朝は進言を無下に却下した頼長に憤りを覚え、また頼長はこうなってしまうと為朝の機嫌を損ねる訳にはいかないので官位を与えてなだめようとするが、為朝は不要と持ち場へと走り去った。

 さて、為朝の持ち場である白河北殿の西門にまず現れたのは平清盛の郎党である伊藤武者景綱と、弟の伊藤五、伊藤六の三兄弟。これに為朝が一矢を射ると、その矢は伊藤六の胸板を突き抜けて、その後ろにいた伊藤五の袖をも射いた。この報告を受けた清盛は息子の重盛が為朝に挑もうとするのを抑えて、敵わないとばかりに別門へ迂回してしまった。
 次に為朝の前に現れたのは、長兄である源義朝で、これに為朝は義朝の兜を掠めるように強弓を射て威嚇するが、義朝も負けじと兵を押し出す。源氏同士の戦いは一進一退を続け、多勢に無勢でさすがの為朝陣も九州から引き連れた28騎の内23騎が討ち取られるが、攻め手の53騎を討ち取り、70余りを負傷させた。為朝の矢に当たる者で助かる者はいなかった。

 このままでは容易に勝負を着け難いと考えた義朝は白河北殿への火攻めを進言し、これを実行した。折からの西風に煽られて火は瞬く間に白河北殿を飲み込み、勝敗は天皇側勝利にて幕を閉じた。
 さすがの為朝も燃え広がる炎をどうすることもできずに、父為義に従って京を落ちて行った。
 その後、為義は為朝の反対を押し切って義朝を頼って降伏したが斬首に処せられた。一方、為義と袂を分けた為朝は九州の筑紫を目指そうとするも潜伏先の近江国輪田で病にかかり療養中に、湯屋にて裸のところを追討軍に急襲されて捕えられた。
 為朝は京に護送されたのだが、先の乱で勇名を馳せた為朝の姿を一目見ようと、庶民から公家、果ては後白河天皇までが見物した。
 為朝の処分は、戦後の刑の執行がすでに一段落着いている時期でもあり、また勇名を惜しまれて伊豆大島への流罪と決まった。ただし、五体満足のままでは大人しくしているような為朝ではないことは目に見えていたので、弓が引けぬようにと肘を外されての刑の執行となった。

 朝廷の判断は正しくもあり、また甘くもあった。
 外された肘が完治すると、以前よりは強く引けなかったものの、それでも射る矢の勢いは健在だった。源氏の御曹司ということもあり、大島の代官の娘婿となって、あっという間に伊豆七島を支配してしまった。
 流されてから10年後には鬼が島(為朝が改名して蘆島)に渡り八丈島に鬼を連れ帰るなどして相変わらずの武勇を示したが、結局はここでも傍若無人が過ぎ、ついには嘉応二(1170)朝廷へ訴えられて討伐軍が派遣された。
 迫る討伐軍の船に為朝は一矢を放って一艘を沈没させるが、それを最後に抵抗を止めて腹を切って果てた。享年33歳。

 以上が『保元物語』に語られる源為朝の一生だ。
 ただ『保元物語』は軍記物語であり、事実を事実として伝える目的で書かれたものとは違うので、中心人物として描かれる為朝の造形には多分に作者の私意が含まれているだろう。残念ながら『保元物語』以外の史料に為朝に関する記述は少なく、実像に迫るのは難しいようだが、『吾妻鏡』では保元の乱にも参戦した大庭景義が為朝を「吾が朝無双の弓矢の達者なり」と評しており、火のないところに煙は立たないの理に鑑みれば、作者に造形の創造を逞しくさせる下地が事実としてあった可能性は充分にあるのだろう。

 結局のところ、為朝という人物を評価するには「伝説の悪童であり、伝説の武人」といったように「伝説」という言葉がどうしても外せないのが実情なのだろう。
 色々な意味において、源為朝とは伝説の巨人である。

 では、伝説ついでに『保元物語』以外に語られる為朝の伝説を。
 伊豆大島で討たれたとされる為朝だが、実は琉球に渡り、その子が初代琉球王舜天になったとする伝説が残っている。
 そして今度は死後『太平記』に語られる愛宕山での悪魔達の集い。悪魔達の棟梁は崇徳上皇で、その下には弓を携えた為朝が控えていたという。

 関連作品:京都にての歴史物語「理の鎖

(2013/01/13)

<源為朝縁の地>

 ・源為朝が父の為義と共に武神として祀られる伴緒社がある。
  白峰神宮

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