「宝積寺」

 

 宝積寺。宝を積む寺。通称「宝寺」。なんて魅力的な名だろう。
 で、その「宝」とはなんぞや?金銀財宝?はたまた?

 寺伝によれば、宝積寺の創建は神亀元年(724)で、聖武天皇の勅命で建立されたという。
 そのいわれは、聖武天皇がまだ天皇即位する以前、夢に現れた龍神より小槌を賜り、龍神の夢告に従い小槌で左の掌を打ったところ、その霊験により天皇即位の願いを果たしたといわれ、その後、聖武天皇は吉方である当地に小槌を奉納する為の宝積寺を建立したのだという。
 さて、この小槌がある有名な宝物と結びつく。それが昔話の一寸法師の中で、一寸法師が退治した鬼から得たといわれる「打出の小槌」だ。打出の小槌がどんなものかといえば、振ればたちどころに願いの物を出現させるといわれる福を呼ぶ宝物だ。一般的に知られる昔話の一寸法師では、一寸法師の身長を伸ばすと共に、米や金銀財宝を打ち出して一寸法師は富栄えたといわれている。また七福神でも有名な大黒天が右手に掲げているのも打出の小槌と言われ、福を打ち出す宝物として一般的に認知されている。
 つまり、宝積寺、通称宝寺の「宝」とは、打出の小槌が出現させるありとあらゆる宝のことだったんだ!あっ、あやかりたや!
 と、思いたいところだが、そうは簡単にいかないのが宝積寺の奥深いところ?実は打出の小槌によって現出した金銀財宝について、平安時代末期に書かれたとされる仏教書『宝物集』では、鐘の音が響くと消え失せるものだとされているのだ。幻の金銀財宝じゃ、全然ありがたくない!それに、実は宝積寺には「小槌」と共に、長さ約30センチの棒状の「打出」と呼ばれる別のものが伝えられているのだ。つまり、宝積寺に祀られているのは「打出の小槌」ではなくて、「打出」と「小槌」。
 果たして「打出の小槌」が先か?「打出」と「小槌」が先か?

 そもそも「打出」とはなんであろうか?
 宝積寺の「打出」は(実りの為の)種を蒔く際に土に穴を開けるものと伝わっているそうだ。
 字面からいえば、宝物を打ち出す小槌だから「打出」とも考えられる。
 また兵庫県芦屋市に伝わる民話では「打出」とは地名のことで、現在も打出小槌町という地名が残っているそうだ。
 諸説紛糾。
 個人的には、もしかしたら図面や寸法を測る時にコンパスのようにして用いられた棒ではないかとも想像するが、正直白旗状態。なので今回「打出」に関しては棚上げしておく。
 実はこの「打出」こそ宝積寺の謎を解く最重要アイテムかもしれないが・・・今回はそっとしておく。。。

 では、そもそも宝積寺に祀られている「小槌」はどこからきたのだろうか。なぜ、聖武天皇に夢告をした龍神は「小槌」を授けたのだろうか?
 聖武天皇―宝積寺ラインを考える時、忘れてはいけない存在がある。それが行基だ。
 行基は奈良時代の僧侶で、巨大な宗教団体を結成すると共に、貧民救済・治水・架橋の事業を多く手掛けたことで有名だ。
 一説によれば、宝積寺は行基を開基としているが、寺伝によるところの創建年である神亀元年(724)当時、行基は勢力拡大を怖れた朝廷から弾圧される立場にあり、聖武天皇と行基が和解したのは天平12年(740)頃とされ、東大寺の大仏建立の為に民衆に影響力を持った行基に聖武天皇が協力を依頼したのが始まりだという。
 ではなぜ、宝積寺の開基が行基とされ、また小槌が奉納されることになったのか?
 実は宝積寺創建と伝わる神亀元年(724)の翌年、行基は淀川に「山崎橋」を架設している。更に天平3年(731)には、布教の道場兼、橋を管理する目的に「山崎院」を建立している。
 一説によれば、この山崎院が宝積寺の前身であるといわれている。

 ここからは、毎度の推測に突っ走る。
 こんな流れはどうだろうか?
 神亀元年(724):聖武天皇即位。
 神亀2年(725):行基が山崎橋架設。
 天平3年(731):行基が山崎院建立。この際、橋の管理の為に『橋の修繕道具が常備された』。その中に「小槌」も含まれていたとする。
 天平12年(740)頃から聖武天皇が東大寺の大仏建立の為に行基に接近。
 天平17年(745):東大寺の大仏建立の為の、勧進の功績を称えられ朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を贈られる。
 そしてこの時期に、行基の業績に対して箔付が行われた可能性はないだろうか?その一つが、布教道場であった山崎院を、聖武天皇勅願の宝積寺とすることではなかっただろうか?そして山崎橋架設の箔付の為、山崎橋架設に使われた諸道具の内から「小槌」が奉納され、更に箔付の為に龍神伝承が付け加えられたのではないだろうか。
 ではなぜ、諸道具の内「小槌」だったのだろうか?一つには、大黒天がいつから打出の小槌を右手に握る意匠となったか不明らしいが、もし「小槌」奉納以前から一般認識されていた意匠であったとすれば、大黒天が起源となった可能性が考えられる。
 一方で、大黒天の意匠が固まる前に、すでに宝積寺へ「小槌」が奉納されていた場合はどう考えられるか。残念ながら、なぜ「小槌」だったのか?という問いに対して、様々な想像はできるが、限定できるほどしっくりくるものはなく、ここでは上記した『橋の修繕道具』=『橋を建設する為の道具』として考えたい。
 そこで重要と思われるのが、宝積寺の源流である山崎橋であり、山崎橋架設が当時の周辺地域、関連各所にもたらしたと考えられるものだ。それはつまり、物流活動の活性化に伴う経済効果ではなかっただろうか。この時期の経済活動については無知で確かなことは言えないが、単純に考えて橋の架設は物流活動を活発にするものだ。現代的な発想でいえば、物流活動の活性化は富を生む。その場合『橋を建設する為の道具』は、間接的に富を生み出したと解釈できないだろうか。最終的に宝積寺に奉納され、現在に伝わる「小槌」もまた、富を生み出した、生み出す道具、と解釈できるのではないだろうか。

 ここで冒頭の疑問に戻る。宝積寺の「宝」とは何か?
 それは、山崎橋が物流活動を活性化したことにより発生した富、積み上がった財を表しているのではないだろうか。もちろん物質的な宝ばかりではなく、その宝が大仏殿建立に一役買ったのだとするならば、精神的な救いをもたらした宝であることも意味しているのかもしれない。
 まさに宝積寺!まさに宝寺!あっ、ありがたや!

 と、そんな推測が成り立つならば、こんな推測もしたくなる。
 「打出の小槌」の伝承は、山崎橋がもたらした富を伝える名残の一部なのではないだろうか。であるならば、宝積寺に祀られた「小槌」は招福の象徴として共通認識されていたのではないだろうか。とするならば、大黒天の意匠が現在のような意匠に固まろうとする時に、宝積寺の招福の霊験にあやかって大黒天は「打出の小槌」を握ったとは考えられないだろうか。更に言えば、小槌を握らせるという事は「打出の小槌」=「宝積寺」であり、実は大黒天が握るのは宝積寺そのものなのではないだろうか。
 七福神の一柱として親しまれる大黒天の、招福利益の霊験の源こそ、この宝積寺であると言えるのではないだろうか!
 あっ、あやかりたや!!

――寺伝の真偽のほどはさておき。。。
――「打出」の存在は棚上げしたまま。。。
――パズルの組み合わせは幾通りも。。。

 でも良い。以上、今回も推測を楽しんだ。
 ここからは脱線しないようにしよう。
 創建以降の宝積寺の歴史を追うと、小倉百人一首の撰者として有名な藤原定家も訪れたことが日記「明月記」に記されている。 貞永元年(1232)には火災により焼失の憂き目にあう。
 天正10年(1582)の山崎の戦いでは羽柴秀吉の本陣が置かれる。
 元治元年(1864)の禁門の変においては、真木和泉(真木保臣)を始めとする長州勢の陣が置かれた。

 現在の宝積寺の見所は、京都府登録文化財の本堂に、重要文化財指定の本尊十一面観音立像。閻魔堂に安置されている閻魔王及び眷属像も重要文化財指定となっており400円で拝観することができる。
 山崎の戦い関連では、本堂手前に山崎の戦いの際に羽柴秀吉が腰かけたという『出世石』があり、また同じく秀吉が一夜で築かせたという伝承が残る、通称「一夜之塔」と呼ばれる三重塔が本堂へ向かう参道右手にある。
 禁門の変関連では『十七烈士の碑』が三重塔近くの墓地に建つ。
 また春の桜、秋の紅葉が有名だ。個人的には桜で二度お世話になっている。
 ※「2016桜見物」「2018桜見物
 後は宝積寺の肝である、本堂左手にある小槌宮だ。伝来の「打出」と「小槌」は、この小槌宮後方の蔵に安置されているそうだ。宝積寺を訪れたなら、参拝は必須だろう。

 さて、そもそも『宝』とはなんぞや?
 国語辞典(三省堂)で調べると「財宝」の他に「たっといもの」と書かれている。
 「たっとい」とは「とうとい」となり、「とうとい」には「貴い」と「尊い」の二つの漢字が割り当てられる。
 貴い:「価値があるようす」「地位(身分)が高い」
 尊い:「尊敬する気持ちを非常に起させる状態」
 以上を総じて『宝』と表現することができるようだ。
 人には人の、それぞれの『宝』が存在するに違いない。

 長い歴史を持つ宝積寺に、人はなぜ訪れるのか。
 それは、人それぞれが抱く『宝』への願いの為だろう。
 では、宝積寺は、どう人と宝を繋いでくれるのだろうか?
 ここで上記した私的推測を引用し、宝積寺の始まりを山崎橋とするならば、宝積寺とは、人と宝を繋ぐ掛け替えのない懸け橋なのではないだろうか。
 故に宝積寺は、時の風雨の浸蝕に耐え、今も貴く、尊さを積み上げているのだろう。

 なお、宝積寺は天王山の中腹にある。JRや阪急の、それぞれの大山崎駅から徒歩でやってくると、JRの踏切を渡った直後から急勾配の坂道を登ることになる。この坂道がなかなかの苦行となる。なので、無理はいけないが、可能であればこの苦行を乗り切り宝積寺を訪れて頂きたい。そうすれば、辿り着いた達成感も、参拝のありがたみも増すというもので。
 ――などと煽るような書き方をしておいてなんだが、本当に無理は厳禁。
 特に下りは、下手すると膝をやられます。要注意、要注意。

 関連作品:京都にての物語「小槌で打つべきは

(2018/11/25)

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