古知谷阿弥陀寺

「古知谷阿弥陀寺」

 

 正式名称「光明山 法国院 阿弥陀寺」。通称「古知谷阿弥陀寺」を訪れたのは、もう6年前ぐらいになるだろうか。京都に移住して、割と早い時期に訪れた記憶がある。大原を訪れたついでに、ガイドブックに小さく掲載されていたのに従って、大原のバス停からテクテクと歩いたのだった。確かその日は三千院の周辺を巡っていたので時刻は夕刻を迎え、今にも太陽が山の向こうに沈んでしまいそうで焦りを覚えていたように思う。
 『大陸風の門を抜けると、坂道は鬱蒼とした山の中に続いていた。日中にも拘らず、薄暗い道。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と、横を流れる川の水音。あの聞き慣れた車の音や、人々のざわめきは一切聞こえてこなかった。待ち望んでいた状況だが、薄気味悪ささえ感じる。
 ――
 坂道を登り出してすぐ、朝美は空気の変化に気付いた。ひんやりとした冷気が身を締め付ける。更に道の左右に並ぶ苔むした石碑が、朝美の背筋を冷たくした。
 相変わらず響くは、水の音。そして、小豆色に変色した杉の落ち葉を踏む自分の足音だけ。
 道の傍らを走る電線が現代の存在を主張するが、道路の路肩は苔に侵食されていた。
 途中、蛙に似た石に笑みを浮かべ、木漏れ日に感謝を覚えるが、擦れ違う人の姿はなく、この道を上がっていいのかさえ不安に思えた。』
 拙作「古知谷阿弥陀寺」から引用したが、最初は静寂を楽しむ余裕などなく、とにかく薄気味悪さだけを感じていた。

 当寺の縁起についてはパンフレットに「慶長14年(1609)3月、弾誓上人が開基なされた如法念佛の道場です」とある。
 当寺が一年で一番賑わうのは、やはり紅葉の季節だろう。
 『――参道南側にある天然記念物(樹齢八百年)の老木を中心に、三百近いカエデが江戸時代から古知谷の秋を彩っています。』(パンフレットからの引用)
 本当に時期に恵まれると、美しい山容を眺めることができる。管理人が訪れた頃には、まだ紅葉の時期でもそれほど多くの観光客を見なかったように思うのだが、最近はどうも多く知られるようになったのか、観光バスでやってくることもあるようだ。管理人の勝手な欲求としては、美しい紅葉も日頃の静寂の中で楽しみたいものだが。

 紅葉の時期を除いて、当寺は静寂の中にある。交通の便も余りよくはないし、これといった見所もない。皇族諸家との縁故から幾つか下賜された品々を展示してはいるが、それも興味がなければ「へぇ~」で終わってしまうだろう。自ずと観光客の足はここまで伸びない。
 だからこそ、却ってその静寂が魅力になる。本堂の一隅をお借りしてボ~ッと山容を眺める贅沢。何度も訪れているうちに、管理人はそんな贅沢を覚えてしまった。そしてそんな贅沢の中で、管理人一つの試みに出会う。それが弾誓上人のミイラ佛が納められている石棺と向かい合うことだった。
 『部屋の奥に、岩窟へと続く石の通路がある。灯りは自然の光だけで、覗き込む朝美の目には、石棺の姿が微かに浮かび上がる。
 用意されたスリッパを履き、岩窟へと近付く。荒く角張った岩からは水滴が零れ、足元は水に濡れていた。一層の冷気を感じる。
 朝美は恐る恐る足を踏み入れた。恐れの原因は薄暗さと静寂にあったが、それ以上にミイラ佛を身近に感じることでの、素直な嫌悪が湧いていた。つまり、死体を身近にしたときの嫌悪。生々しい死への嫌悪。
 石棺は台座の上に、2メートル立方の大きさで屋根を備えている。正面に鉄の扉が閉まり、扉の下には青銅色の菊の紋が飾られていた。この中に、確かに弾誓上人は存在する。
 朝美の脳は、石棺の中の弾誓上人の姿を想像しえた。ミイラの映像は、テレビからなどの情報でいくつか蓄えられている。干乾びた四肢。空ろな眼窩。想像すればするほど、この場から逃げ出したくなる。
 けれど朝美は逃げなかった。恐怖や嫌悪よりも、弾誓上人に対する敬意が勝った。この人と向き合ってみたい。あえて苦しみに挑んだ、その心情が知りたいと。感じたいと。』
 再度拙作から引用してみた。静寂に浸っていると、自ずと自分と向かい合う時間が多くなる。そうすると、より強く自分と向かい合った先達として弾誓上人と向かい合ってみたくなったのだ。もちろん弾誓上人は何も語ってくれない。そこで行われるのはあくまでも自問自答だ。けれど、その試みがまた勇気を与えてくれる。それは弾誓上人の行いを思うことで、自ずと上を向かざるを得なくなるからだろう。

 管理人はこんな風にして古知谷阿弥陀寺を楽しんでいる。

 古知谷阿弥陀寺には静寂と、自分と向かい合う時間が用意されている。
 そんな気がする。

(2008/08/21)

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