古知谷阿弥陀寺

~リセットする覚悟~

<登場人物>
・和谷朝美(カズタニアサミ)

 

 大陸風の門を抜けると、坂道は鬱蒼とした山の中に続いていた。日中にも拘らず、薄暗い道。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と、横を流れる川の水音。あの聞き慣れた車の音や、人々のざわめきは一切聞こえてこなかった。待ち望んでいた状況だが、薄気味悪ささえ感じる。
 躊躇する想いを振り切り、和谷朝美は坂道を登りだした。
 阿弥陀寺。ガイドブックでその名を目にした時、朝美はその解説文句に惹かれた。
『ここまでくれば、喧騒から解放される』
 変な具合に取れてしまった休日。考えた末に、京都に行こうと思った。
 京都には、中学、高校の修学旅行で来たことがある。寺社仏閣に興味がある訳でもなかったし、これといった思い出はないが、とにかく友達と遊んで、騒いで、楽しかった。
 現在は中堅の建設会社で経理をしている。彼氏はいるが、休みが合わなかった。ただ、例え合ったとしても、今回ばかりは一人旅を選んだかもしれない。
 彼氏に不満がある訳ではないが、仕事共々、日常に充実感が持てなかった。だから、その日常を一人で離れたかったのかもしれない。
 心のどこかに抱いていた京都という都市の幻想が、朝美を京都に向わせた。
 坂道を登り出してすぐ、朝美は空気の変化に気付いた。ひんやりとした冷気が身を締め付ける。更に道の左右に並ぶ苔むした石碑が、朝美の背筋を冷たくした。
 相変わらず響くは、水の音。そして、小豆色に変色した杉の落ち葉を踏む自分の足音だけ。
 道の傍らを走る電線が現代の存在を主張するが、道路の路肩は苔に侵食されていた。
 途中、蛙に似た石に笑みを浮かべ、木漏れ日に感謝を覚えるが、擦れ違う人の姿はなく、この道を上がっていいのかさえ不安に思えた。
 中腹の駐車場を越える辺りから、右手には竹林が広がり、左手には『実相の滝』と記された小さな滝が現われた。白い飛沫を上げて、二段に落ちている。
 更に進むと、苔むした石垣が高く聳え、その上に小さな建物が見えた。まるで山城の様な造りだ。
 左手に天然記念物の大楓を過ぎて右に階段を上れば、ようやく本堂がある場所に着いた。下の駐車場からだと15分ぐらいか。歩きやすい靴を履いてきていて良かったと朝美は思った。
 拝観料を払って境内に入ると、正面に質素な佇まいの本堂が現われた。山の偉容に押されるように、ひっそりと。
 観光客の姿はなかった。朝美、一人きり。
 玄関で靴を脱ぎ、建物の中に入る。
 すぐ左手には大きな畳部屋があり、正面奥には技巧を凝らした現代的な仏画が飾られ、鴨居には皇族のご参拝模様の写真が並んでいた。
 朝美は一通り見て、出る。
 廊下を進むと、正面に黒板に金字で『弾誓上人石廟』と書かれた薄暗い部屋が現われた。朝美は石廟正面の階段下で立ち止まり、見上げた。
――これか。
 実はガイドブックの阿弥陀寺の欄で、もう一つ朝美の目を惹いた言葉があった。
『ミイラ佛』
 この阿弥陀寺を開基したのが弾誓上人であり、この石廟には、弾誓上人のミイラが今でも収められているという。
 弾誓上人は、穀断ち塩断ちの末に松の実や皮を食べ、体質を樹脂質化した後に、石棺の真下に掘っていた二重の石龕に生きながら入り、息絶えるまで念仏を唱え、端坐合掌の相のままミイラ佛となった。現在の石棺に収められたのは、明治十五年のことだそうだ。
 朝美がまず思ったのは、その苦しみだ。入定と言葉は尊いが、その実は餓死による自殺だ。どれほどの苦しみが弾誓上人を襲っただろう。自分にはできない。できないという想いが、ある種の尊敬を生み出す。
 朝美は階段を上った。正面には賽銭箱と、赤の地に金糸で模様を描いた布が被せられた台が置かれている。部屋の右手には大きな額に、静かに挑むような表情の僧侶の姿絵があり、左手には考えるような表情の仏像が安置されていた。
 部屋の奥に、岩窟へと続く石の通路がある。灯りは自然の光だけで、覗き込む朝美の目には、石棺の姿が微かに浮かび上がる。
 用意されたスリッパを履き、岩窟へと近付く。荒く角張った岩からは水滴が零れ、足元は水に濡れていた。一層の冷気を感じる。
 朝美は恐る恐る足を踏み入れた。恐れの原因は薄暗さと静寂にあったが、それ以上にミイラ佛を身近に感じることでの、素直な嫌悪が湧いていた。つまり、死体を身近にしたときの嫌悪。生々しい死への嫌悪。
 石棺は台座の上に、2メートル立方の大きさで屋根を備えている。正面に鉄の扉が閉まり、扉の下には青銅色の菊の紋が飾られていた。この中に、確かに弾誓上人は存在する。
 朝美の脳は、石棺の中の弾誓上人の姿を想像しえた。ミイラの映像は、テレビからなどの情報でいくつか蓄えられている。干乾びた四肢。空ろな眼窩。想像すればするほど、この場から逃げ出したくなる。
 けれど朝美は逃げなかった。恐怖や嫌悪よりも、弾誓上人に対する敬意が勝った。この人と向き合ってみたい。あえて苦しみに挑んだ、その心情が知りたいと。感じたいと。
 静かに目を閉じ、手を合わせる。最初はなにも考えずに、心を鎮めた。
 水滴が岩床を打つ音が響く。リズムは不規則に。それでも、止むことなく。
 朝美は想像する。自分が同じ状況を体験したならば、と。
 まずは早速、食欲に気が狂うだろう。美味しい物を食べたい。量を食べたいと。けれど、それは許されない。
 次に自分の姿に嘆くだろう。痩せ細り、節くれだった四肢。眼窩は窪み、見るに耐えない容姿。
 やがて、自由の利かなくなった体に絶望するだろう。力が入らず、僅かな欲求も叶えられず。
 そして、死を恐れるだろう。未知なるものへの恐怖のそれとして。
 閉じた目蓋の闇の中、朝美は己の想像に苦悩した。
――とても私には、この苦しみに耐えられない。
――弾誓上人の想いが、私にはわからない。
 手を重ねた体の感覚は闇に麻痺し、繰り返される水滴の破裂音が異様に頭脳にこだまする。己の身が枯れ果て、無残に野に晒され、風に転がり朽ちる。繰り返し朽ちる。
 朝美の意識は闇に沈んでいく。闇に――
 どれほど石棺と向かい合っていただろうか。やがて朝美は背後の物音に体を跳ね上げ、咄嗟に振り返った。尋常ならざるものを予感したが、それは男性の参拝客だった。こちらの様子を伺い、朝美が出てくるのを待っているようだ。
 慌てて朝美は出ようとするが、思い出したように石棺に一礼してから石廟を後にした。
 宝物殿を軽く回ってから、本堂へと向う。
 本堂は畳の凹部分と、仏像や位牌などが安置されている凸部分に別れ、本尊は凸部分の中央に配されていた。説明書きには、永住を求められた弾誓上人による自作自像植髪を本尊として祀っているとある。現在も僅かに両耳近くに植髪が確認できた。向って本尊の右後方には、重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像が安置されている。
 外観もそうだが、内観もとても質素な空間だった。
 朝美は本尊を拝した後、開け放たれた本堂正面に腰を下ろした。両手を後ろに突いて、足を伸ばす。見渡す限りの山だった。本堂の左の方を遠く眺めれば山の切れ目が見えたが、そこから覗くのも、また山だった。本当に喧騒とは無縁の地。
 朝美は呆然と正面の山を眺めていた。やがて先程の参拝客も去り、誰もいなくなった。
 静かな時間が流れる。
 朝美が望んでいたものは、これだった。京都に抱いていた幻想は、日常から離れたこの環境の静けさ。そして、心の静けさだった。
 空は曇っていたが、心は徐々に透き通っていく感じがする。冷たい霊妙な空気。大きく吸い込んで、長く吐き出す。心に気が満ちる。
 気が満ちてくれば、逆に日常のことを冷静に考えられるようになる。朝美は想う。今の日常に充実感がないのは、己の意志が反映されていないからだと。
 朝美の意志は、本来デザイン関係の仕事に就くことだった。しかしこの不況下で、道を変えざるをえなかった。フリーターの道も考えたが、生活を考えれば流れに身を任せるしかなかった。就職できただけでも、上出来だと考えた。
 けれど、仕事をしている自分は機械的だった。仕事をこなすプログラム的記憶だけが必要で、意志はいつも虚空を漂っていた。
 精神と体が離れ離れになった状態。そんな状態に疲れたのかもしれない。だから京都に癒しを求めた。
 苦しかった。自分自身が。そしてその苦しみが、弾誓上人の苦しみと同調した。
――なぜ弾誓上人は、身を蝕む恐怖に耐えられたのだろう?
 厳しい修行の結果と言ってしまえば、それで終わりかもしれない。けれど、この本堂に回って、朝美は一つ疑問に思ったことがある。弾誓上人は人々に永住を乞われて、なぜ自像を作ったのだろう。結果論で考えれば、己のミイラ佛こそ永住の証とすれば良かったではないか。そのため現在も、本尊はあくまでも自作の木像で、本人はミイラ佛の扱いだ。
 弾誓上人は入定するに当たって、あえて分身を残したと考えられないか?つまりは他者との関係を断ち切り、一修行者として入定を果たそうとした。なぜか?
 朝美は宗教に関して詳しくはない。けれども想像する。極楽浄土へと赴く、その一瞬の喜びを。わだかまりのない、一身による旅立ちを。
 弾誓上人は自ら望むことによって、苦痛をも喜びに変えていた。
 朝美が苦痛を喜びと変えてしまう望みとは――デザイン。
 朝美は立ち上がり本堂を出ると、再び石廟に入り弾誓上人と向かい合った。目を閉じ、心で念じる。
――私は苦労を恐れていた。だから不満があっても、今の状況を時代の責任にして仕方ないのだと慰めていた。
――けれど、違う。本当はまだ完全に夢の扉は閉まってはいない。苦労することを厭わなければ、努力はいくらでもできる筈。
――そう、自らが望むなら。
――私は、やっぱり夢を捨てきれない!
 朝美が京都を選んだのには、無邪気に夢を見ていた学生の頃を懐かしむ気持ちもあった。
――私、頑張ってみます。
 朝美は弾誓上人に語りかけた。
 目を開ける。そこには変わらない石棺があったが、先程よりも強く弾誓上人の存在を感じられたような気がした。勝手な思い込みだが、笑ってくれているような気がした。
 一礼をして石廟を後にし、玄関で靴を履くと、朝美は大きく背伸びをしながら外に出た。
 見渡す限りの緑の山々。広がる空。佇む本堂。朝美は新鮮な気持ちで、これらを眺めた。
「さぁ、やるぞ!」
 朝美はガイドブックで阿弥陀寺を見付けた時から、リセットする覚悟だったのかもしれない。

(2007/12/10)

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