鴨川

「鴨川」

 

 平安京といえば、その造営地を風水的な見地から定めたというのは有名な話。その代表的な思想が、四神相応だ。四神とは、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武と四方を守護する神のことをいい、相応とはその四神が守護していると見立てられるモノがあるかどうかをいう。例えば大陸の地理風水では龍脈(りゅうみゃく)という思想から山を四神と見立て、平安京では丹波高地の山脈から貴船山、船岡山にかけてを玄武とし、東の大文字山から伏見の稲荷山を経て宇治に至る山岳を青龍とし、西は嵐山から長岡京市に至る山岳を白虎とし、京田辺市の甘南備山を朱雀にあてる。ただし、朱雀を水に見立てる場合もある為、その場合はかつて平安京の南方に広がっていた巨椋池をあてる。
 一方、日本で一般的に流布している思想では、山川道澤といわれるように、北の玄武を船岡山、東の青龍を鴨川、西の白虎を山陽道、南の朱雀を巨椋池に見立てている。
 上記のように、大陸的にも日本的にも平安京は理想的な地形であったといわれている。
 さて、今回の主題である鴨川は、上記の通り日本的な思想では青龍に見立てられ、平安京にとってとても重要視されていたことがわかる。例え四神相応思想を省いたとしても、人間生活に水は欠かすことができず、根本的な人間生活からいっても鴨川は平安京にとって重要な存在だったのではないだろうか。

 そもそも鴨川は、なぜ鴨川と呼ばれるのだろうか?まぁ単純に推測するに、その上流地を賀茂氏の勢力圏だったからではないだろうか。そしてなぜ『賀茂』ではなく『鴨』の字をあてるのかと考えれば、やはり下鴨神社の存在があるのではないだろうか。ではなぜ、下鴨神社は『賀茂』ではなく『鴨』の字をあてているのかと考えると……非常にややこしい問題でもあり、具体的にも調べていないのでここでは省くが、管理人の勝手な推理では下鴨神社に祭られている賀茂氏の祖神賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏(やたがらす)であるとされることと関係があるのではないだろうか。つまり『鳥』である。
 それはさておき、鴨川の歴史は京の都の歴史でもある。
 鴨川といえば、その役割として都市の浄化機能があげられる。その事実は、かつて一条以北は禊場であったということであり、そして六条以南は死体捨て場であったことからも窺える。また鴨川の河原では多くの処刑が行われ、多くの血を洗い流した。
 一方、役立つとばかり思いきや、鴨川は幾度も氾濫し、京の都を飲み込んだ。これも一つの浄化機能といってしまえばそういうことになるが、これがなんとも迷惑な機能で、平安末期の白河院が己の意図に従わぬモノとして山法師、双六の賽と共に「天下の三不如意」として鴨川があげられ、多くの民を悩ましたことが窺い知れる。
 更に中世に入ると、鴨川の河原は不課免税の地であったこともあり、多くの芸能の者が住んで都を中心に日本の文化を興隆させた。代表的人物といえば、出雲のお国だろうか。現在でも四条大橋の東側にある南座は、多く河原に建てられた芝居小屋の一つであった。

 そして現在――管理人はある日、四条大橋から川辺に降りて、下鴨神社を経由して上賀茂神社まで歩いたことがある。そこには、人々の憩いの姿があった。
 四条大橋付近はデートスポットとしても有名だが、北に遡り丸太町橋付近に至ると、両岸ともに公園のように整備され、ベンチなどもあり、憩いの場として提供されていた。管理人もまた途中で腰をおろし、鴨川の流れを眼にしながら用意してきたおにぎりを美味しく頂いた。またあるところでは、鳶などにパンのミミかなにかをあげているおばちゃんがいた。いつもは空高く円を描いている鳶がすぐ近くを飛翔しているので、その光景はちょっとした見ものだった。
 歩いていて管理人が感じたことは、北に行くにつれ緑が増え、自然の息吹を感じるということである。それは鴨川の流れを通じて、北部の山々の自然が京都という都市部に流れ込んできていると感じるものだった。ある風水師は、鴨川が北山からの気の流れを南へ伝えていると言ったそうだ。管理人は、その『気』という存在を『自然の息吹』に置き換えられるのではないかと思える。その流れは京都の街の穢れを浄化する存在のようであり、やはり現在も鴨川は京都の浄化機能として作用しているのだ。ただ、丸太町橋以南は浄化のキャパを超えてしまったか、自然の息吹は失われてしまうのが何とも残念だ。

 鴨川にかかる橋に立つと、吹き抜ける風を感じることができる。
 きっとその風は、飛翔する青龍の巻き起こした風なのだろう。
 そう思ってみたくなるのが、ただの河川であって、ただの河川ではない、自然と歴史を併せ持った鴨川の魅力なのではないだろうか。

 関連作品:京都にての物語「自然と歴史とデートスポット

(2008/10/02)

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