「足利義政」

 

 足利義政は、足利将軍家の8代目に当たる人物だ。同じ8代目繋がりで徳川将軍家を見れば、かの有名な暴れん坊将軍徳川吉宗がいる。吉宗は改革を断行し、徳川将軍家の中興を成した人物ともいわれているが、一方の義政はといえば何をしたのかも一般的ではなく、その存在は薄く、知らない人に手っ取り早く伝えるのであれば「応仁の乱の時の将軍」というのが適当だろうか。管理人が義政を初めて知ったのは小学生の頃で、教室の本棚にあった漫画日本の歴史の中で、応仁の乱の最中になにも手を下せないで陰鬱に酒を飲んでいる姿が描かれていたのを覚えている。頭に被っている烏帽子が中折れしていて、それはとても寂しげな姿だった。

 義政の祖父は、かの足利3代将軍義満であり、父は6代目将軍の義教。
 義政は嘉吉3年(1443)に7代将軍義勝の逝去に伴い、8歳で将軍家の家督を継ぎ、6年後の文安6年(1449)には元服に伴い将軍に就任して8代将軍となった。ところが、やはり将軍とはいえ未だ子供であり、その実権はないに等しく周りの大人たちが私していたようだ。中でも義政の乳母である今参局、有馬持家、烏丸資任は三魔といわれ、当時の政治批判の中心だった。そんな中で、最初は将軍として政(まつりごと)に意欲的だった義政も、次第に己の思いのままにならない政に嫌気がさしたのか、意欲を失っていったようだ。更に追い討ちをかけたのが、飢饉をきっかけとした各地で頻発する土一揆であり、将軍家と畠山家の後継問題を機にして、ついには応仁の乱が起こる。応仁の乱は11年もの間都を主戦場とし、京の都は焼け野原になった。嘘か本当か、京都人の中には先の大戦といえば、応仁の乱を思い浮かべる人がいるらしい。
 その真偽はさておき、こうして混乱しきった世情を将軍としてコントロールできなかった為に、義政には愚将軍としてのレッテルが貼られてしまった。応仁の乱から13年後、義政は55歳でこの世を去った。ちなみに、その正室は悪女として名高き日野冨子だ。まさに四面楚歌の人生とでもいおうか。

 さて、では義政はなにもしなかったのか。というと、そうでもない。政治的にはまったくの無能者であった義政だが、一方文化面には才能を発揮したと言われている。それが一般的に足利義満による北山文化にも比較される東山文化だ。なぜ東山文化と呼ぶかというと、その中心地たる山荘が東山の麓にあったからだ。その山荘こそ、今の銀閣寺だ。
 東山文化における義政の役割は、多くの才能ある芸能者達のパトロンであるということだった。己の芸術眼に叶うものであれば、身分を問わずに引き上げた。銀閣寺の作庭には河原者と呼ばれる当時一般的に身分の低かった者達を身分の垣根を越えて登用し作業に当たらせ、その造作は後世の作庭における一つの手本となった。また絵画では、後にその一統が徳川家のお抱え絵師となる狩野家の祖、狩野正信を見出したのも義政だった。立花、茶の湯、連歌、猿楽にしてもしかり。
 東山文化は、現代日本にも脈々と影響を及ぼしている日本文化の一つの源流であることは間違いない。そういう意味では、義政の存在は計り知れなく大きいのだ。
 またまたちなみに、8月16日に行われる五山の送り火は京都の風物詩でもあるが、これは元々、息子の義尚が死去した際にその御霊を弔う為に義政が銀閣寺裏手の大文字山で大の字を焚いたのが始まりといわれている。

 確かに義政は政を司る将軍としては失格であり、徳川8代将軍のように幕府の中興をなしたとはいいがたい。けれど一方、文化面に目を転じ、日本の文化という長い流れの中で考えると、義政の存在は一つの大きなターニングポイントであり、無視できない存在なのだ。
 小学生の時に見た漫画歴史の日本の義政の姿。もし、義政がそんな寂しい姿で落ち込んでいたのであれば、背中をポンと叩いて「結構やるじゃないですか」と一言声を掛けたい気分だ。
 まっ、管理人なんかに励まされて気を取り直すほど、義政の心の闇は浅くないと思うが。。。

 関連作品:京都にての歴史物語「足利八代将軍

(2008/10/09)

<足利義政縁の地>

 ・足利義政が晩年に人生をかけて取り組んだ山荘造営跡。
  銀閣寺ホームページ⇒http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/

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