「足利八代将軍」

<登場人物>

・足利義政(あしかがよしまさ)

時代:室町期

 

 土器(かわらけ)をうやうやと拝し、一気に呷る松田某を見詰めながら、足利義政はこの男は死ぬのだろうな、と思うと哀れであった。松田は酒を干した土器を返そうとするが、義政はその土器にもう一度提子(ひさげ)を傾けて酒を注いだ。松田は驚いた様子をみせながらも畏まって二杯目を受けると、また呷った。松田は土器を返そうとする。義政はまた注いだ。戸惑いながらも、松田は三度受けた。義政は思う。このまま酔い潰れてしまえば、この男は死ななくて済むのではないかと。更に酒を注いでやろうと義政は待ち構えるが、松田は、
「冥土の土産に頂戴したく」
 と土器を鎧の隙間から懐に押し込み、深々と頭を下げて颯爽と義政の前から姿を消した。
 提子を右手に捧げたまま松田を見送った義政は――側仕えの者に命じて別の土器を用意させると、自ら酒を注いで呷った。あのような殊勝な者ほど死ぬのだろう、と義政は松田の去った座を見詰め、また酒を注いだ。

 義政は嘉吉三年(一四四三)に七代将軍義勝の逝去に伴い、八歳で将軍家の家督を継ぎ、六年後の文安六年(一四四九)には元服に伴い将軍に就任して八代将軍となった。しかし、幼い義政に将軍としての実権はなく、それは青年期に至っても変わらなかった。周りはいつまでも義政を子供扱いした。義政もそんな扱いに諾々と甘んじていた訳ではなく、将軍として自立する為に自分なりの考えに沿って政(まつりごと)に向かい合った。だが、所詮義政はお飾りの将軍であった。憤りを覚える義政に、乳母の今参局が耳元で囁くのである。
「お父君のようにならぬ為にも、周りの者の言葉に耳を傾けなさいませ」
 義政の父である六代将軍義教は、弱まった将軍権力を回復し、更なる強化を図る為、粛清による恐怖政治を行った。その結果将軍としての地位を確固たるものにしたようにみえたが、粛清を恐れた赤松満祐の謀略にかかり殺害されてしまったのである。世に『嘉吉の変』と呼ばれる事件である。幼き頃、父の死を知った義政は強い衝撃と共に恐怖を覚えた。それこそ、乳母の今参局に泣きつきもした――
 義政は強権を振るえなかった。故に、今参局を初めとする周囲の者達は益々増長していった。やがて義政は己に向けて深々と下げられている人々の頭は虚ろであり、それぞれの心は別の方向に向いているのを否応なく知らされ、世情の混乱をよそに政への情熱を失っていった。

 戦の喧騒は止んだ筈なのに、夜の帳に包まれた花の御所は未だ混乱の空気が漂っていた。御台の日野冨子に仕える老女が相国寺を焼いた余燼が迫っている為、花の御所を退きたい旨を伝えてきたが、義政はそれに答えず酒を満たした土器を持ったままふらりと立ち上がると、覚束ない足取りで縁側に立った。木材が焼け焦げる臭いが鼻を突く。
 応仁元年(一四六七)に戦端を切った、後に『応仁の乱』と呼ばれる戦は、ついに花の御所に隣接する相国寺を焼いた。あの男は死んだかな、と義政は思う。死んだのだろう、と思う。この戦に際し、義政は将軍として一応の努力はした。つい先日も西軍の総大将である山名持豊に京都から下国するよう求め、戦乱の発端でもある畠山家の後継問題を和睦させようと書面を発した。だが、すべてなしの礫であった。この結果に憤りはない。最初からこんなものだと諦めている。けれど、死に行く者は哀れだと思う。
 酔うた頭で義政は、自分が将軍ではいけないのだろうと考える。だから早く将軍職を譲ってしまいたかった。弟の義視か、息子の義尚か。それは応仁の乱勃発の主要因でもある問題なのだが――
 酔うた義政の想いは、問題の解決を通り越して将軍職を譲った後の己に向けられた。義政には一つの願いがある。それは新たな山荘の造営であった。精々政で義政を利用する為のご機嫌伺いか、造営事業については誰も義政の欲求を妨害する者はいなかった。その為、政を離れた義政の情熱は、造営事業、及び芸術の道へと注がれていた。
 山荘造営のことに想いが至ると、どのように工夫しようかとにわかに楽しい心持になって、義政の頭からはすっかり松田のことや、後継問題のことなど消え失せてしまった。
 義政はおもむろに夜空を見上げた。相国寺から立ち上る煙に遮られて月がおぼろげに輝いていた。
 義政はそれを、とても美しいと思った。

(2008/10/04)

京都にての人々「足利義政

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