「槇村正直」

 

 槇村正直という人物をご存知だろうか?管理人はまったく知らなかった。一般的な歴史の教科書に出てくるような人物でもない。
 管理人が初めてその名を目にしたのは、京都検定受験の為に購入した京都・観光文化検定試験公式ガイドブックによってだった。槇村正直という人物は、京都府の2代目府知事なのだそうである。正直、現在管理人が在住する大阪府知事が橋下さんというぐらいはわかるが、その前が誰だとか、管理人の地元の知事が誰がやっていたなのかさえまったく知らない。興味がない。なんで2代目京都府知事の名を知っていようか。
 ところが京都検定に挑もうとすると、どうしてもこの髭オヤジ(参考にした「維新京都を救った豪腕知事~槇村正直と町衆たち~」の中で著者である明田鉄男さんが使用した表現)を避けて通ることができないことに気付く。なら向かい合うしかないだろう、ということで髭オヤジと向かいあってみた。

 槇村正直は天保5年(1834)に長州藩籍郷士格の家の次男として生まれる。幼少より文武に優れ、21歳の時に見込まれて長州藩槇村家に養子に入る。その後、長州藩での主な活動は蜜用聞次役(みつようききつぎやく)、いわば秘密警察のような役割を務めていたようでスパイのようなこともしたようだ。そして維新後の明治元年、桂小五郎こと木戸孝允の推薦もあって京都府に出仕する事になった。
 維新後の京都は実質的な東京遷都に伴い衰退の一歩を辿っていた。一刻も早く復興の目途を立てなければならない。そんな状況の中で槇村が知事になるのは明治10年のことだが、それまでも実質的に府政を取り仕切っていたのは槇村だといわれている。槇村は京都復興の基本方針として産業の振興を掲げ、次々と西洋文化を取り入れ産業開発を推奨し、その成果を公表する場として博覧会を開催した。また繁華街を生み出そうと強引な手腕をもって新京極通を完成させた。一方で教育にも力をいれ、小学校を設立するほか、婦女子の職業訓練場として女工場を設立した。今では観光の目玉の一つでもある祗園甲部で行われる「都をどり」も槇村の発案と伝わる。とにかくありとあらゆる施策に槇村は絡み、まさに八面六臂の活躍を見せた。まさに豪腕!
 けれど、豪腕はともすると諸刃の剣となる。槇村は様々な問題も引き起こした。最も有名なのが豪商小野組の転籍事件だ。切っ掛けは業務上本拠を東京に移したい小野組が府に転籍願いを出したことに始まる。しかし府としては転籍されてしまうと今でいう法人税が取れなくなるので莫大な損失となるから転籍を許したくない。そこで登場した槇村は願いを取り下げよと一喝。だが却ってこれが火に油を注いだ。小野組は裁判所に府を訴えたのだ。するとこれがまた変な飛び火をした。裁判所を管轄する司法省は佐賀藩出身の司法卿江藤新平筆頭に反薩長の空気に満たされていた。槇村は長州出身であったから目の敵にされた。ただ、槇村の不遜な態度も不味かった。とにかく司法省と府との間で凄まじい攻防が繰り広げられ、その結果としてついには槇村は拘留されてしまったのだ。これでは流石の豪腕もかたなしだ。結果的には中央政府の征韓論を巡る政争によって司法卿江藤新平が野に下り、佐賀の乱で死亡したのをきっかけに木戸が動いて槇村は釈放された。小野組ははれて東京へ転籍が叶い、勝敗あったかと思いきや・・・僅かその翌年に小野組は倒産してしまった。長州系の政治家が裏で動いたという噂があるとか、ないとか。
 それともう一つ管理人がびっくりしたのは、明治5年に発せられたお盆行事禁止の布令だ。その理由は非文明的であるから。なんとお盆の大文字山から大の字が消えてしまったのだ。これも槇村の発案だという。この布令自体は槇村が京都から去った後の明治16年に解除されたが、今や重要な観光資源となっている大文字焼を見たならば、槇村はなんと思うのだろう。

 こんなはちゃめちゃな一面を持った槇村だったが、良くも悪くも変革期を迎えていた京都にはこんな豪腕をもった髭オヤジが必要だったのかもしれない。結果的に槇村の施策は京都復興に向けての切っ掛けと間違いなくなったのだ。
 もし京都検定受験を考えてる方がいたならば、槇村正直という避けては通れない髭オヤジがいるということを覚えておいて欲しい。

 関連作品:京都にての歴史物語「作品『京都』

(2009/06/12)

<槇村正直縁の地>

 ・「都をどり」も槇村正直の発案だと伝わる。
  都をどり公式ウェブサイト⇒http://www.miyako-odori.jp/

 ・第一回京都博覧会会場
  西本願寺ホームページ⇒http://www.hongwanji.or.jp/
  建仁寺ホームページ⇒ http://www.kenninji.jp/
  知恩院ホームページ⇒http://www.chion-in.or.jp/

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