「作品『京都』」

<登場人物>

・槇村正直(まきむらまさなお)
・長谷信篤(ながたにのぶあつ)

時代:明治期

 

 しばしの休息の後、お立ちになった明治天皇の傍らに案内役として立ったのは京都府知事の長谷信篤ではなく、参事の槇村正直だった。これに陛下御付の人々はおや、と思ったが、府側の面々はそれが予め決められてことを示すように表情一つ変えずに従った。ただ正直の後に従う形となってしまった信篤だけは陛下に悟られぬように不機嫌な視線を正直の後頭部にぶつけていた。
 明治5年6月2日、西国巡行の為に入洛中であった明治天皇は閉会直後の第一回京都博覧会の会場の一つである建仁寺を訪れた。この行幸は、当然の事ながら事前に京都府にも通達されており、府側は万全の対応を取る必要に迫られた。通達に従い知事の信篤は参事の正直らを知事室に呼んで協議した。
「では、お迎えするのは博覧会閉会後の6月2日でよろしいかな」
 協議の結果を取りまとめ、信篤が決定を下した。その他、処々万端の準備を行うよう指示した上で、信篤は今から張り切った様子で博覧会展示物の資料を作成するよう実質的な博覧会の代表者である正直に指示した。陛下御巡覧とあれば府の長たる信篤が案内役を務めるのは当然の成り行きであり、その案内に不手際があってはいけない。
 ところが正直は了解の返事をするどころか、
「会場でのご案内は私が承りましょう」
 と、のうのうと言ってのけた。陛下と直々にお言葉を交わし案内を務めるということは、その者にとって一世一代の栄誉である。それを信篤が部下の正直に譲ることなどありえないにも関わらず、正直は憚りもせずに信篤の視線を捉え、それを見据えた。その眼は無感動である。故にそれは意気揚々とした信篤への皮肉でもあった。正直には自負がある。一体誰のお陰で博覧会が開催できたのだと。
 正直は明治元年、京都振興の実務家として期待され同じ長州出身の木戸孝允の推薦を以て京都府に出仕するや、その強い意志と行動力で維新以後の京都の方向性を定めていった。実質的な東京遷都に伴い衰退する一方の京都を再興する基本方針として正直らが掲げたのが、産業振興による自立した経済基盤を有することであった。その一環として進めてきたのが今回の博覧会であり、その中心に正直はいたのである。公家出身の信篤は実務には疎く、今や府政の多くを正直が取り仕切っていた。
 だからといって信篤にも知事は己だという自負があるので、そう易々正直の思い通りにはさせまいと極めて感情は抑えつつも眉根を釣り上げて反論した。
「いや、やはり知事である私が務めるのが筋であろう」
「しかし知事はどれほど博覧会についてご存知か?」
「だからこそ資料をと頼んでいるのではないか」
「それで、もし不手際があったのならどうします?」
 博覧会の総出品点数は2485点にのぼり、博覧会三会場の一つである建仁寺には単純にその3分の1にあたる約800点近くが展示されていると考えられ、それらの来歴を信篤が一朝一夕で覚えるには随分と骨が折れるだろう。それに引き換え正直は展示品選定の段階から関わってきているのでその労力は格段に軽減され、且つ間違えも少ないだろう。もし信篤が強引に案内役を務めたとしても、万が一に頼るのは正直なのである。
 正直にこう弱みを突かれては、信篤は押し黙ってしまった。他の面々も府政を実質的に取り仕切っているのは正直と承知しているだけに、あえて口を挟む者はいなかった。
「よろしいですかな?」
 その正直の一言で散会となった。
 こうして正直は明治天皇と3時間もの間直々に言葉を交わし案内役という名誉に浴した。途中新式の米搗き器に興味を示された陛下は、正直の勧めもあり自らの足で動力を踏み込み実践なされた。これには新しき世とはいえ陛下が米搗きの真似事をなさるなどと周囲の面々は一様に困惑の表情を見せたが、正直一人は己が主導し手掛けた博覧会の最終的な成功を噛み締め、栄光を謳うが如く陛下のお姿に賛辞を送った。

 後に正直は信篤の後を継いで二代目の京都府知事となり、元老院に転出する明治14年までの間京都府政に全力を注いだ。その結果として京都は東京遷都の衰退から立ち直る切っ掛けを得たのである。
 正直にとって京都における14年間とは、一つの作品作りであった。維新後の新たな京都の姿そのものが、正直にとっての作品であった。故に正直は己の持てる全力を傾けることができ、かつ己の気に入らぬものは徹底的に排除した。それはまさに作者が作品に有する拘りと固執の証であった。博覧会にて明治天皇の案内役を務める旨を主張したのも、いわば作品を作者が説明する当然の権利を主張したまでのことであった。
 後年、正直の後を継いで三代目の京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖疏水着工に全力を注ぐ為もあり、正直の事業をことごとく否定した。それは正直が丹精込めて作り上げた作品『京都』の破壊に他ならなかった。
 己の作品を汚された正直は北垣国道による府政を全力で批難した。

(2009/06/12)

京都にての人々「槇村正直

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