禅居庵

「禅居庵」

 

 阪急四条河原町駅を出てから管理人が東山に向かう場合、その道順はまず東に向かい四条大橋を通って南座を過ぎ、大和大路通に出たらこれを南下する。そうするとやがて左手に建仁寺が見えるようになり、その建仁寺の南端まで南下し、もう一度東に道をとると、その先をずっと歩いていけば八坂の塔にあたる。こうして管理人は東山に乗り出していくだのだが、その途中、建仁寺の南西の端っこにあるのが、建仁寺塔頭の一つである禅居庵だ。その門には『開運摩利支尊天』刻まれた立派な石碑があり、その前を通る度に気になる存在だった。

 禅居庵の開山は中国福建省生まれの大鑑清拙正澄(だいかんせいせつしょうちょう)禅師(1274-1339)で、嘉歴元年(1326)に筑前博多に来朝、翌年には上洛の上、鎌倉に下り、元弘3年(1333)建仁寺第23代住持に迎えられた。その後南禅寺住持を務めた後、建仁寺山内の禅居庵に退隠され、歴応2年(1339)に当庵において遷化された。
 現在禅居庵は非公開の為に中に入ることはできない。では、なにが公開されているのかといえば、境内にある摩利支天堂だ。この摩利支天堂には大鑑清拙正澄禅師が信仰していた摩利支天像が秘仏として祀られている。この堂宇は元弘年間(1331-3)に小笠原貞宗により創建されたが兵火に焼かれ、後の天文16年(1547)に織田信長の父である信秀が建立したと伝わっている。平成7年には文化財の指定を京都府より受けている。

 さて、ではその摩利支天とはどんな仏様だろうか。禅居庵のパンフレットには以下のように記されている。
 『摩利支天の語源はサンスクリット語で、陽炎(かげろう)を意味するMarici(マリーチ)の音を漢字に写したものです。またそのルーツは威光、陽炎が神格化した古代インドの女神マーリーチで、創造神プラフマー(梵天)の子と言われています』
 陽炎を辞書で引いてみると「(春や夏など)地面から、すきとおったほのうのようにゆらゆら立ちのぼるもの」とある。暑い日にアスファルト上に現れるあのモヤモヤとしたものだ。といってわかるだろうか?要はそのモヤモヤを神格化し、仏教に取り込んだのが摩利支天ということだ。その為、そのモヤモヤに実体がないように、摩利支天の功徳もその実体の無さを活かした「隠形(おんぎょう)」だといわれている。実体が無ければ他人に傷つけられることもなく、捕まることもなく、そもそも知られることもない。故に武将の間に摩利支天信仰が広がり、楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したという。そういえば一昨年の大河「風林火山」で主人公の山本勘助が持っていた御守りも摩利支天だったような。
 ところで、戦のなくなった現代日本。一番摩利支天の功徳にあやかりたいのは・・・泥棒だろうな、などと思ってしまった。いや、捕まることもなく、そもそも知られることもない・・・まさに透明人間状態。その家業にはもってこいの功徳だろう。って、いけません。泥棒は犯罪です。仏様は犯罪には手を貸しません。なら人殺しの戦は?・・・まぁ、そこら辺は仏様にも色々とお考えがござりましょう。。。

 なお、摩利支天は像として祀られる際には猪車に乗った姿で表されることから、猪を眷属として従えているとされ、禅居庵でもまるで狛犬のように狛猪が参道に配されている。その姿たるや、今にも猪突猛進と駆け出さんばかりに。
 京都御苑西側にある護王神社共々、亥年生まれの人には特別ご縁のある寺院となるかもしれない。

 関連作品:京都にての物語「隠形の功徳

(2009/07/02)

禅居庵ホームページ⇒http://www.zenkyoan.jp/
建仁寺ホームページ⇒http://www.kenninji.jp/

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