禅居庵

~隠形の功徳~

<登場人物>
・千草八千代(ちぐさやちよ)・俊次(しゅんじ)

 

 日は西に傾き、日中の温暖さが退いてやや肌寒い風を感じる五月初旬の京都。
「俊次、ちょっとおいで」
 八十を過ぎても杖も突かずに未だ衰えぬ足取りで進む千草八千代に誘われ、孫の千草俊次は一緒に京都観光に訪れている家族と別れ、建仁寺の南にある勅使門の横から境内の外に出た。
「どこに行くんですか?」
 八千代の我儘に少々迷惑がる俊次が機嫌を伺うように尋ねてみても、西への道を辿る八千代の歩調は変わらずに、ただついておいで、とだけ答えて俊次の顔を見ずに前だけを向いていく。まさか八千代を一人にして置く訳にもいかず、俊次は口をへの字に歪めて肩を竦め、仕方なくその傍らに従った。
 八千代が誘い入ったのは、建仁寺を出てすぐの所だった。建仁寺勅使門前の道路に面し、西へ二分もかからない小さく古びていても立派な門を八千代は潜り、俊次もそれに従った。門前の右手には『開運摩利支尊天』と刻まれた石碑が建ち、門の屋根からは『摩利支尊天』と大書された赤提灯が下がっていた。ここは?という俊次の問い掛けに、八千代は、
「摩利支天堂だよ」
 と答えた。
 摩利支天堂の境内は今までいた建仁寺の境内のその広さとは比べるもなくこじんまりとしており、門からお堂までの距離は二十歩もいらないだろう。お堂へは石畳が敷かれており、途中、左右にまるで神社の狛犬のように今にも駆け出しそうな躍動感のある猪の像が配されていた。俊次が問うと、八千代曰く摩利支天は猪に乗った姿で表されているのだという。
 門にあったのと同じ『摩利支尊天』と大書された大きな赤提灯がお堂から突き出た屋根に二つ並んで下げられているのを見上げつつ、二人は葺かれた瓦も重々しい立派なお堂の前に立った。八千代は賽銭もせずに手を合わせ、最初お堂の中を覗くような視線を向けていたが、やがて静かに目を閉じて祈りの時を過ごした。訳のわからない俊次は折角なのでと八千代の分も含めて賽銭を投げ、軽く手を併せて頭を垂れたが、そもそもどんなご利益があるのかも知らないので、特に願いもせずに併せていた手を下ろして目を開いた。すると八千代はまだ瞑目している。手持ち無沙汰になった俊次は、お堂の左手に掲げられた由緒書きに目を向けた。
『摩利支天の語源はサンスクリット語で、陽炎を意味するMarici(マリーチ)の音を漢字に写したものです。またそのルーツは威光、陽炎が神格化した古代インドの女神マーリーチで――
――陽炎には実体が無いので、捕らえられて傷付けられることが無い。害されることが無いところから戦国の武将の間にこの摩利支天信仰が広がったようです。他にも楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。』
 禅居庵は建仁寺の塔頭寺院で、建仁寺二十三代住持である中国出身の僧清拙正澄(せいせつしょうちょう)禅師の隠居所として元弘年間(1331―1333)建てられ、禅師が摩利支天を信仰していた為にその持仏である摩利支天像を秘仏として境内に祀ったのが摩利支天堂の始まりとされる。後に兵火に焼かれるが、織田信長の父である信秀によって再建されたと伝わり、現在では日本三大摩利支天の一つに数えられ、お堂そのものは京都府指定文化財となっている。
 俊次は楠木正成や前田利家といった知った武将の名が登場したことでようやく興味を持ち、再度お堂の中を覗き込むと、それに合わせたように合掌を解いた八千代が視線は須弥壇に向けたまま独り言のように呟く。
「摩利支天を信仰すれば隠形の功徳があると言われているんだよ」
 隠形という言葉に俊次は最初思い至らず考え込んだが、
 「隠形・・・ああ、身を隠すってことね」
 と相槌を打った。
「弾にも当たらないといってね・・・昔、私とお前の本当のお祖父さんもここで必死にお祈りしたんだよ」
「本当のお祖父さんって、あの戦死したっていう?」
 俊次は八千代の生涯を詳しくは知らない。ただ俊次が父親から聞いた話によれば、八千代には太平洋戦争で亡くした夫があり、その間にできた子供が俊次の父親で、八千代は後に再婚して俊次の父親は義父の元で育てられたのだという。
 八千代は語る。当時京都市内に住んでいた祖父の元に八千代が嫁ぎ、妊娠が発覚してすぐに赤紙が届いたのだという。家族を残し戦地に赴くことになった祖父は、御国の為に死ぬことが美徳であった風潮の中にあって家族を想い、必ず生きて帰ることを八千代に誓い、摩利支天に願い出兵していったが、無事に子を出産した八千代の元に帰ってきたのは祖父の南方戦線での戦死の知らせだけだった。その後、京都を離れて実家に戻った八千代は戦後になって再婚したのだという。
「・・・ご利益はなかった訳だ」
 俊次はそんなものだと言わぬばかりに皮肉な笑みを浮べて堂内を一瞥した。
 だが、八千代は白髪を揺らし、静かに首を横に振った。
「摩利支天の功徳はあくまでも隠形なんだよ。隠れてこそのご利益だ。なのに無闇やたらに攻め込んだりすれば、そりゃ当然撃たれるさ」
 祖父は上官の無謀な命令により突撃し敵の銃弾に倒れたのだという。
「いいかい、摩利支天がなぜ開運や勝利の神といわれているか、よく考えなくちゃいけないよ。矢玉が当たらないというのはただの例え話さ。いいかい、摩利支天はね、勝利の為には機を見極めろと教えてくれているんだよ。それまで必死に耐える姿こそ、隠形なんだよ」
 ああ、なるほど、と八千代の解釈に俊次は妙に納得してしまった。摩利支天は陽炎を神格化したものだという。ならば隠れるには都合がいいが、いざ攻めるとなると敵を討つ為には実体化しなければならない。幽霊が人を殴ろうとしてもすり抜けてしまうイメージだ。しかし実体化するということは、矢玉を受ける身になるということだ。ではどうすれば勝利を得られるか。それには実体化しても矢玉が当たらない機会を窺うに限る。理屈である。などと、俊次は一人合点してなんども頷いていたが、その様子に八千代は呆れたようすで嘆いた。
「飲み込みの悪い子だね。あんたのことだよ」
 俊次は突然振られ、少しの間眉根を寄せて思考をフル回転させた。そうしてようやく八千代は自分の為にこの摩利支天堂へやってきたのだと気付いた。
 俊次は三十半ばにして小さいながらもパン工場の経営者であった。開業したのは義理の祖父。父が継いで俊次が三代目だった。これまでそこそこ順調な経営であったが、近年の原材料の価格高騰や世界同時不況、更にそれに続くデフレ経済の影響で売上が落ち込んできており、大きな転換期を迎えていた。そんな中、俊次が考えた経営再建策が新たなヒット商品を生み出すことだった。ヒット商品が生まれれば売上が上がるのは簡単な道理である。だが、道理だからといってそれが簡単にいけば苦労はしない。俊次は新商品開発に没頭し、今回の京都旅行にも乗る気ではなかったが、気分転換という勧めでついては来たものの、どこを訪れても新商品のことが頭を離れることはなかった。だが一方で、会長に退いた父親からは博打するような真似はせずに、今は地道に足元を固めろと言われていた。
「つまり婆ちゃんは、俺が無謀な突撃をしているっていいたい訳?」
 俊次は心外な思いで八千代に問うた。
 八千代は諭すように言う。
「一気に挽回したいっていうあんたの気持ちもわかる。けどね、うちはそんなに焦らなくちゃならないほど体力のない会社かい?私はね、今は時を待ちなさいと言ってるの。必ず打って出る時はくる。その時の為に備えることこそ大事じゃないのかい?」
 俊次はそれでも不本意だったが、八千代の言うことも確かである。そもそも八千代と義理の祖父が二人三脚で育て上げてきた会社だ。そんな八千代だからこそ、会社の強さを一番信じているし、確信もしているのだろう。
 俊次はお堂内に視線を向け、摩利支天を思った。そして八千代の解釈を今一度反復する。
――機を待つ姿こそ、隠形の功徳か。
 自然、俊次は再度手を合わせて瞑目していた。そして新商品開発への想いをあっさりと捨てていた。
 正直なところ新商品の開発は上手くいってなかったのだ。だが社長としての責任が俊次に見栄を張らせ、余計に状況の打開を焦らせていた。要は八千代の言うとおり、無謀な突撃だったのである。それをはっきりと八千代に悟らされたので、会社のことを想えばこそ今は時ではないと素直に受け入れることができたのだ。けれども俊次はここで全てを挫折した訳ではない。これはあくまでも勝利を掴むための一時の忍耐でしかなく、必ずやこの後に新商品開発にも成功してみせるという決意を祈りに込めた。
 八千代は俊次の心の変化を悟り、満足気に頷いた。そして目を開けて顔を上げた俊次に、
「うちのクリームパンはまだまだ売れるよ」
 と自信を持って告げた。
 俊次は思わず破顔した。クリームパンは会社創業からのロングセラー商品であり、開発したのはもちろん八千代と義理の祖父であった。

 破顔した俊次の表情に八千代は亡き前夫の面影を重ね――微笑んだ。 涙は過去。

(2009/05/15)

禅居庵ホームページ⇒http://www.zenkyoan.jp/

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