安井金比羅宮

「安井金比羅宮」

 

 人々の願いが込められた絵馬。神社を訪れると、思わず他の誰かが書いた絵馬を読んでみたくなるのは人の性か。
 それでも大概の神社で見られる絵馬の内容は、とても前向きな、希望を望む人々の素直な願いだ。それは微笑ましく・・・けれど、ありきたりで特に面白味に欠ける。その点、安井金比羅宮に掲げられている絵馬ときたら・・・面白い、と思ってしまうこの不謹慎さ。そこには、こちらもまた人々の素直な願いが掲げられているのだが、その方向性が生々しい。無責任な傍観者の位置から生々しき人間の願望を眺めるというのは、なんとも甘き蜜の味。それは理性に押し込められた奥底の欲望の闇に感応する故の痺れか。
「誰ぞと、誰ぞの、縁が切れますように・・・」
 『縁切り』こそ安井金比羅宮の看板のご利益。

 安井金比羅宮の起源は、神社のご由緒によれば藤原鎌足が一堂を建立したのが始まりという。後に光明院観勝寺が当地に建立され藤の名所であったそうだが、応仁の乱の兵火により荒廃した。時を経て元禄8年(1695)に太秦安井から蓮華光院が当地に移築されたが、その際に鎮守として崇徳天皇、及び讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀った。明治維新の後に蓮華光院が嵯峨大覚寺に併合された為、神社のみが当地に残り今に至っている。
 祭神は上記した崇徳天皇、大物主神、源頼政。
 大物主神は大国主命の別名であり、大国主命といえば出雲大社の祭神として有名だ。出雲大社といえば「縁結び」のご利益が有名だから、安井金比羅宮の「縁結び」も大物主神が担当しているのかもしれない。
 源頼政は平清盛を頂点とする平氏政権下で重用された源氏の長老であったが、後に以仁王を擁して平氏打倒の兵を挙げるも宇治平等院の戦いで敗れ自害している。そんな源頼政の有名な伝説はなんといっても鵺退治だろう。鵺とは猿の顔に狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇であるいわれる妖怪、今でいうUMA(未確認生物)とでもいおうか、鳥のトラツグミに似た声で不気味に鳴くという。その鵺が天皇を苦しめている。そこで呼ばれたのが弓の名人といわれた源頼政で、見事鵺を退治したという。
 最後に崇徳天皇。なにを隠そう、安井金比羅宮の霊験はこの崇徳天皇にこそあると思わる。崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子(実は鳥羽天皇の祖父・白河上皇の御落胤という説が根強い)で、白河上皇の意向により帝位につくが、白河上皇崩御後は鳥羽上皇により退位させられた。1156年に保元の乱をおこし後白河天皇と戦うが敗れ、讃岐国白峰に配流される。 後に崇徳天皇は髪も爪も伸び放題にし、鬼気迫る姿となり「大魔王」として世を呪う誓文を己の血でしたためたといわれ、その誓い通りに死後は大怨霊として朝廷を苦しめ続けたという。安井金比羅宮のご由緒でも「縁切り」のご利益は崇徳天皇に因むと記しており、また安井金比羅宮の北の鳥居の道を隔てた先には崇徳天皇御廟があり、大いなる霊験はここを源にするのか。

 そんな縁切り縁結びのご利益を謳う安井金比羅宮の境内には、写真のような「縁切り縁結び碑」というものがある。覆っている白いものは人々が願いを書き込んだ形代(かたしろ)だ。碑の下部には小さな穴が開いていて、表から裏へ穴を通ると悪縁を切り、裏から表へ通ると良縁を結ぶという。訪れたなら試してみるといいかもしれないが・・・個人的にはこれだけ人の想いを受けた形代に包まれた中を通るのはぞっとする。これは絵馬にも言えることで、上記では「面白い」と不敬にも書いたが、それも最初だけで、人の念に当たり続けるとどうも気分が悪くなる。もちろん、科学的に人の念なんてものが外部に及ぼす影響などは実証されていないが、心理的に受け取り手が人の念を感じると思い込み、それが己に影響したと思い込めば、人の念は間違いなく感染するのだ。なので、面白がって他人の念に触れることは余りお薦めしない。要は己の願いこそ重要であり、他の人は他の人ということで。

 縁切りというと、どうしても人間関係の縁ということになりがちだが、安井金比羅宮は幅広い縁切りを推奨している。例えば病気、酒、煙草、賭事。病気は本人の意志ではどうしようもない部分があるので、それこそ神頼みだが、酒、煙草、賭事は本人の意志次第。いっそ安井金比羅宮を訪れたのを機に酒、煙草、賭事との縁切りの願掛けをしてみてはどうだろうか。もし成し遂げられなかったら、崇徳天皇の崇りがあるかも・・・ああ、恐ろしい!!
 これぞ偉大なる霊験。

 関連作品:京都にての物語「縁の再生

(2010/06/24)

安井金比羅宮ホームページ⇒http://www.yasui-konpiragu.or.jp/

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