「木曾義仲」

 

 木曾義仲というと、なんとなく第三の男、というイメージが個人的にはある。源平の頃の第一の男といえば、やはり源義経。ええ、ミーハーなもので。続いて第二の男は源頼朝。ここは外せない。そして第三番目に木曾義仲こと源義仲。他にも平知盛や藤原秀衡などお気に入りはいるが、なんとな~くの個人的順序。
 では、なぜ三番目かといえば、やはり頼朝に先んじて京より平氏を追い落とし上洛した功績か。それではなぜ、三番目なのかといえば、僅か5ヶ月にして今度は自らが京から落ちて行かねばならなかったその運命か。
 ミーハーな管理人はどうしても義経の視点から描かれる義仲を多く見てきている。そこで描かれる義仲は粗暴で山育ちの田舎者。良く言えば豪傑であるが、政治には向かないタイプ。それはそれはミスター都(?)ともいうべき後白河法皇にしたら見苦しき存在であっただろう。

 義仲は久寿元年(1154)に武蔵国に生まれたといわれている。幼名は駒王丸。父は源義賢で、祖父は源為義。為義の嫡子が源義朝で、その子は源頼朝。つまり義仲と頼朝は従兄弟にあたる。
 しかし義仲が生まれて間もなくと思われる頃、父義賢が義朝の嫡子で頼朝の兄である源義平に襲撃され命を落としてしまう。関東にいられなくなった義仲は信濃国に逃れ、中原兼遠に養われることになった。
 木曾谷で無事に成長した義仲が伊豆で挙兵した頼朝に呼応し平氏追討の挙兵をしたのは治承4年(1180)。当初は上野国に侵攻するが、すぐに信濃に戻り、北陸道へと兵を進めていく。北陸道での合戦で次々と勝利を挙げた義仲は各地の源氏勢力が挙兵するに至った平氏追討の令旨を発した以仁王の遺児北陸宮を迎え、更に同調する勢力を吸収し、義仲の軍勢は急激に増大していった。その勢いのままに、義仲は挙兵から僅か三年弱で平氏を京から追い落とし上洛するに至った。
 義仲の上洛は歓迎され、早速京中守護を任じられ、また朝日将軍の称号を賜った。しかし、義仲の絶頂は長くは続かなかった。
 まず問題となったのが京中の治安問題。入京以来「京中守護」を任じられていた義仲軍だが、軍の統制は乱れ却って略奪などの行為に走る兵士が多く、治安は悪化するばかりとなった。
 次に持ち上がったのは皇位継承問題。今上帝である安徳天皇が平氏勢力と共に西国へ落ちた為に次なる天皇を決めなければならなくなった。この時、義仲は自らが保護してきた北陸宮の即位を主張したが、これが後白河法皇の義仲に対する印象を著しく悪くしたと思われる。皇位継承は国家の最重要事項だ。その最重要事項に例え平氏を京より追い出した功績はあろうとも義仲の如き位の低い田舎者が口を出してきたのだから、後白河法皇にしたら「身をわきまえろ!」といった感じだったろう。もちろん義仲の主張は無視され、後白河法皇が推す後鳥羽天皇が即位した。
 治安問題によって京中の人心を失い、皇位継承問題によって朝廷との関係悪化、それに伴い朝廷重視の姿勢を持つ勢力の離脱を招くこととなった。
 更に後白河法皇は義仲を京から追い出す画策を始める。義仲に西国に落ちた平氏の追討を命じつつ、鎌倉へは再三頼朝の上洛を要請した。
 備中国水島の合戦にて平氏に大敗してしまった義仲は、平氏追討命令を放棄し帰京した。その義仲の元には追い討ちをかけるように義経軍上洛の情報がもたらされ、ついには後白河法皇より京中退去を言い渡された。まさに山の頂上から崖下へまっさかさまの転落人生。
 窮地に追い込まれた義仲は、武力の矛先を権威の最高峰、後白河法皇に向けてしまう。それが法住寺合戦と呼ばれる事件で、現在の三十三間堂こと蓮華王院、今熊野神社も法住寺の敷地内にあったといえば、おおよその地理は把握できると思うが、そこを義仲は襲撃し、後白河法皇を幽閉してしまった。
 苦し紛れの一撃。けれど、結局は頼朝に軍勢を上洛させる格好の口実を与えてしまった。
 寿永3年(1184)正月20日。ついに源範頼、源義経率いる鎌倉勢は京への侵攻を開始し、戦いつつ京を逃れた義仲だったが、同日、近江国粟津にて討ち取られた。

 結局、義仲が京で成功できなかった最大の要因は政治的感覚の欠如であったと思われる。またそれを補佐するに足る優れた右腕にも恵まれなかった。京における、政治の世界を知らなかった義仲。一方の頼朝は京で育っており、そのあたりの駆け引きを充分に承知していたのだろう。
 やはり義仲は田舎者であったか。
 しかし、だからといってそれが人物を評価する全てではない。義仲が歩んだ転落人生には、それに殉じた者達がいる。
 中でも有名なのが巴御前だろう。もともと巴は義仲の「便女」=侍女であったという。一般的には義仲の妾=愛人であったと描かれることが多いが、平家物語から読み解くと定かではないようだ。巴の特徴は、なんといっても武勇だろう。女だてらに軍の一翼を担い、その大力は男勝り。数々の激戦を義仲と共に潜り抜けてきた。河原合戦の後に残った義仲主従7騎にも数えられ、最後は義仲に戦線離脱を命じられ落ちていったという。
 そして義仲の右腕と呼ぶに相応しいのが、今井兼平だろう。義仲軍の主力として戦い、多くの戦果を挙げてきた。義仲が落ち目を迎えても常に義中とあり、その最前線へと赴いた。河原合戦後に残った義仲主従7騎の中にもあり、巴が落ちて行き、討たれ、落ちて行き。ついには義仲と兼平の2騎だけとなってしまった。
 「日ごろはなんとも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と兼平に呟いたとされる言葉は有名だ。
 気力を失った義仲は死を覚悟するが、兼平はせめて名誉の死と自害を勧める。その時間を稼ぐ為に兼平はただ一騎敵中に斬り込んでいった。義仲は一人死に場所を求め彷徨った。しかし、深田に馬ごと嵌り前進できなくなった義仲は兼平を気遣い振り返った。丁度その時、敵兵が射た矢が内兜を貫き、義仲は命を落としてしまった。義仲が討たれたと知った兼平は、最早これまでとばかりに太刀の切っ先を口に咥えたまま馬からまっさかさまに飛び降り義仲に殉じた。
 人間的魅力、という点においては、これらの人々を惹きつけるものが義仲にはあったのだろう。

 文豪芥川龍之介は義仲を「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌(さてつ)の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」と評している。
 義仲は英雄であったか?そう問われれば、個人的にはどうしても小粒感が否めない。けれども、後世これだけ語られるのだから、その生涯に魅力がないというのも嘘になるだろう。

 関連作品:京都にての歴史物語「死出への出陣

(2010/08/16)

<木曾義仲縁の地>

 ・法住寺合戦縁の地
  法住寺
  三十三間堂ホームページ⇒http://sanjusangendo.jp/

 ・木曾義仲の首塚がひっそりと佇む
   法観寺

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