六道珍皇寺

「六道珍皇寺」

 

 六道珍皇寺の門前辺りを通称『六道の辻』と呼ぶ。
 まず『六道』とはなんぞや?
 三省堂国語辞典:「仏教用語。いっさいの衆生が生きていたときの行いによって死後に生まれ変わって住む六種の世界」
 大辞泉:「仏語。衆生がその業(ごう)によっておもむく六種の世界」
 その六種の世界は「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」といわれる。
 ちなみに『辻』を調べると。
 三省堂国語辞典:「①道が交差したところ。十字路。②みちばた。ちまた。」
 大辞泉:「①道路が十字形に交わる所。四つ辻。十字路。②人が往来する道筋。街頭。」
 ざっくりと纏めれば「あの世との境目」といった意味合いだろうか。
 では、なぜ六道珍皇寺の門前辺りを通称『六道の辻』と呼ぶのか。それは六道珍皇寺の東方、清水寺からその南方にかけての地域を鳥辺野といい、かつては死体の捨て場だったからだ。古代日本での一般庶民の葬送習慣としては土葬よりも風葬にするのが一般的で、風葬とはつまり野ざらしにするということだ。
 六道珍皇寺門前の道を西に下れば六波羅密寺があるが、この『六波羅』という地名、実は「髑髏原」が語源という説がある。
 『京都異界紀行』の中に次のような逸話が記載されている。ざっと書くと「かつて東山消防署の宿直室に泊まると、必ず悪夢を見る為、誰もが気味悪がっていた。庁舎の工事に伴い土を掘り返したところ、宿直室の真下から大量の人骨が出てきたという。その量はトラック二台分にもなった」
 ネタ元は(中川平著『緑』飛鳥新社・昭和59年)との事。
 なんでも葬列は珍皇寺の僧に引導を渡してもらい、と鳥辺野の地に向かったという。まさにこの世とあの世の境目。

 六道珍皇寺の創建については、
 ・平安遷都以前にこの地を支配していた鳥部氏の氏寺『宝皇寺』が前身であるという説。
 ・空海の師である慶俊の創建によるという説。
 ・山代淡海などが鎮護国家の為に創建したという説。
 など諸説あるが、早い段階で東寺に属し、中世の兵乱により荒廃したが、建仁寺の僧良聡が再興するにあたり臨済宗に改められ、明治期に建仁寺に吸収されるが後に独立し現在に至っている。

 六道珍皇寺を語るにおいて忘れてはいけないのが、小野篁の存在だろう。
 小野篁は平安前期の学者であり官僚であった。最終的には参議にまで昇進している。文武両道に秀で、身長はなんと六尺二寸(188センチ)もあったという。また、だいぶ気骨があり過ぎた人物のようで、遣唐副使に任じられた際には大使藤原常嗣の専断を批判し病と称して乗船を拒否し隠岐島に流されたり、『宇治拾遺物語』には「無悪善」という落書きを見た嵯峨天皇が小野篁になんと読むのか質したところ「悪(さが⇒嵯峨天皇)無くば、善けん」つまりは「嵯峨天皇がいなければ良いのに」と本人を前にして平然と答えたという。その振る舞いから「野相公」「野宰相」更には「野狂」とも呼ばれる一風変わった公卿だった。
 その超人的な存在感が、一つの伝承を生んだ。それが「閻魔庁第三の冥官」として閻魔大王に仕えていたという伝承だ。小野篁は昼間は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王に仕えたという。そして閻魔庁へと出仕するあの世へ向かう入り口が、六道珍皇寺の裏庭に今も残る井戸であったという。
 現在井戸は普通に訪れると本堂右手の戸の隙間から遠くに望ことしかできないが、その井戸を覗いた人によれば、今は底に落ち葉が積るだけだという。けれど、視覚に捉われてはいけない。あの世への入り口だけに、いつその底があの世へと通じるかはわからない?

 様々な伝承に彩られた六道珍皇寺だが、普段訪れるとなんだか味気ない。左程広くない境内はまるで駐車場の様。
 それでも見所としては、やはり閻魔堂(篁堂) だろうか。このお堂の中には小野篁像と閻魔大王像が仲良く?安置されている。閻魔大王は恐ろしい憤怒の表情。そして篁はどこか澄ましたような超然とした、それでも堂々とした姿を見せている。共に立派な彫像だ。
 あと鐘楼は通称「迎え鐘」の名で知られる。この鐘の音はあの世にまで届くと伝えられ、迎え鐘とはつまり盂蘭盆会にあたり先祖の霊を招くのにこの鐘を撞くことによってあの世の合図を送るのだ。六道珍皇寺では毎年8月7日~10日を「六道まいり」と称し、境内は高野槙を求め迎え鐘を撞く人々で溢れる。
 見た目には味気なくなってしまった六道珍皇寺だが、現在に至ってもなお、この世とあの世の境目に建つ役割を脈々と受け継いでいるようだ。

 関連作品:京都にての物語「迎え鐘

(2010/07/15)

京都にての地図(googleマップ)

京都にてのあれこれへ トップページへ