「阿保親王」

 

 阿保親王・・・決して阿呆ではありません。阿保(あぼ)親王。。。
 早とちりしてしまうと、危うくバカ殿を連想してしまいそうだが、とてもとても高貴なお方。
 父親は、平安遷都を成し遂げた桓武天皇の皇子であり第51代天皇の平城天皇。その第一皇子として延暦11年(792)に誕生した。
 『続日本後紀』の薨伝によれば「素性謙退。才兼文武。有膂力。妙絃歌。」とあり、控えめな性格ながらも、腕力も強ければ、楽器演奏と歌にも優れた、文武両道の人物だったようだ。
 ところが、歴史的にいえばいまいち有名ではない。どちらかといえば、彼の息子の方が有名だ。息子達は臣籍降下(皇族から姓を得て人臣になること)し、在原姓を名乗った。そして彼の五男こそが、かの六歌仙にも挙げられる在原業平だ。
 では、阿保親王はどのような生涯を送ったのだろうか。
 それは高貴さ故の、二度の政変に身を翻弄された、波乱の人生だった。

 一度目の政変。弘仁元年(810)『薬子の変』。
 原因は平城上皇と嵯峨天皇の対立による。これに藤原仲成・薬子兄妹が平城上皇の側について対立を煽り、平城京に拠った平城上皇は平城京への還都の詔を出した。これに対して嵯峨天皇は平城京への還都を拒否し、藤原仲成を捕縛して尚侍であった薬子の官位を剥奪した。この動きに激怒した平城上皇は東国へ下って挙兵しようとするが、嵯峨天皇が先手を打ってその道を阻み、ついに薬子は毒をあおって自害し、平城上皇は出家することで事態は収拾した。
 この『薬子の変』における阿保親王の動きは伝えられていないが、平城上皇の第一皇子である阿保親王も連座し、大宰権帥として大宰府に左遷させられてしまった。以後、平城上皇が崩御し入京が許される天長元年(824)までの間、14年間を大宰府で過ごすことになった。

 そして二度目の政変。承和9年(842)『承和の変』。
 原因は皇統の後継問題による。
 当時皇統は嵯峨⇒淳和(嵯峨の弟)⇒仁明(嵯峨の皇子)と繋がり、次期天皇である皇太子には恒貞親王(淳和の皇子)が立てられていた。
 ところが、当時、嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子の信任を得て急速に力を伸ばしていた藤原良房の妹順子が仁明天皇の皇子道康親王を産み、良房が道康親王を皇太子に立てようと画策の動きを見せた為に状況が一変してきた。
 これに危機感を抱いたのが恒貞親王に仕える伴健岑と、橘逸勢で、嵯峨上皇が生きている限りは恒貞親王の皇太子の地位は保障されていた(淳和上皇と恒貞親王は皇太子を辞そうしたが、嵯峨上皇が慰留していたという)が、当時すでに高齢で体調を崩していた嵯峨上皇が崩御すれば皇太子の地位が危ういと考え、嵯峨上皇の崩御を機に東国にて兵を挙げんと企てたのだ。
 当然、挙兵の為には必要な勢力を確保しておく必要がある。その一環としてだろう、伴健岑は阿保親王に近付き密書を託した。 その密書を――阿保親王は皇太后橘嘉智子に上呈した。更に橘嘉智子はこの密書を藤原良房に開示した。
 そして嵯峨上皇が崩御し、葬送が済んだ承和9年(842)7月17日、突如として伴健岑や橘逸勢らが謀反を企てたとして捕縛された。恒貞親王は廃太子となり、伴健岑と橘逸勢はそれぞれ流罪となった。なお、廃太子された恒貞親王の後に皇太子に立てられたのは、藤原良房の甥である道康親王だった。

 結果として、阿保親王は謀反を未然に防いだ功労者となった。
 だが、その僅か3ヶ月後の承和9年10月22日に阿保親王は逝去してしまう。享年51歳。
 生前は三品・弾正尹だったが、承和の変の功を以て一品を贈位された。

 こうして阿保親王は、波乱の人生を終えたのだった。

 

 ・・・って、終われねぇーよ!
 なんか、すげぇー怪し過ぎるし!
 3ヶ月っていったら、TV業界でいったら1クールでしょう!事件のほとぼりを冷ます、最短期間である訳でしょう!(完全に現代的、かつ偏った感覚。。。)
 結果論として『承和の変』で一番の得をしたのは藤原良房で、故に、この政変は良房主導の陰謀であったというのが諸説の大勢を占める。
 そもそも阿保親王が皇太后橘嘉智子に密書を上呈するという行為。これは当時の阿保親王が弾正尹(弾正台の長官。弾正台は監察・警察機構で、左大臣以下の非違を弾じ奏上する権限を有した)にあったことから、職務に従った行動とみることができる為、不自然さはないのだが・・・
 それ以前の疑問として、伴健岑によって阿保親王に齎されたという密書自体、本当に存在したのだろうか?
 歴史を疑いだせばきりがない。きりがないが――首謀者の一人として名が挙がった橘逸勢は流刑地の伊豆に向かう途上にて逝去し、後に早良親王らと共に『八所御霊』として祀られ、現在も上下御霊神社にて祀られている。そもそも御霊とは、恨みを抱いて亡くなった人物――無実の罪を着せられて亡くなった人物として語られることが多く、それを考慮すると、橘逸勢の罪は怪しくなる。また伴健岑と橘逸勢は捕縛後に拷問を受けているが、自白したという記述は残されていない。

 疑い出せば本当にきりがない。きりがないが――
 政変が良房の陰謀だったとし、もし阿保親王が故意のあるなしにかかわらずに加担してしまっていたとしたら・・・
 消された可能性。または、後悔の念に駆られて自ら命を絶った可能性もあるのではないだろうか。

 阿保親王の死のタイミングは、波乱に満ちた彼の生涯を象徴しているようだ。

 関連作品:京都にての歴史物語「世は無常にて

(2013/02/04)

<阿保親王縁の地>

 ・阿保親王が建立したと伝わる。
  阿保山願成寺

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