「世は無情にて」

<登場人物>

・阿保親王(あぼしんのう)

時代:平安期

 

――なんとも皮肉なものだ。望んでもいないのに、今度は私の意志一つで、事が左右されでしまうようだ。
 阿保親王は灯火の焚かれた自室にて、漆塗りの文箱を前に置き、一人悲しげな笑みを浮かべた。
「恒貞様は承知なのかな?」
「もちろん、皇太子様はご承知でございます」
 嘘だ――阿保は密かに溜息を吐いた。
 恒貞親王の春宮帯刀舎人である伴健岑が屋敷を訪れたのは、一刻ほど前の事だ。健岑はとある書状を持参し、それを阿保に託した。その書状に目を通した阿保は驚き、と共に憂鬱に心が闇に染まった。
「なぜ、私にこれを?」
「恐れながら、親王様におかれましては、今の官位にご不満は御座いませんでしょうか?本来であれば皇統を継がれてもおかしくないお方。皇太子様も、とても不憫であると仰っておいでです」
「私が怨んでいると?」
「左様では・・・御座いませんか?」
 健岑のこちらの心底を見透かしていると思い込んでいる嫌らしいその目が、阿保には苦痛だった。
 阿保は平城天皇の皇子であった。嵯峨天皇の御世となり皇太子となったのは弟の高丘親王だったが、確かに皇統に極めて近い身分として生まれた。しかし、世にいう『薬子の変』において父の平城上皇と嵯峨天皇が争い、平城が敗北。平城は剃髪の上出家し、皇太子であった高丘も廃太子の上、後に出家した。阿保自身も己の意志に関係なく翻弄され、連座して十四年もの間大宰府への左遷となった。
 健岑が言っているのは、この事であった。今でもその処置を怨みに思っているのではないかと。だが、阿保自身が事件から学んだのは、権力争いに巻き込まれぬよう務める事であった。あの苦しみを、二度と味わいたくはなかった。怨みなど、とうに捨ててしまっていた。
 健岑が持ち込んだ書状には、嵯峨上皇が崩御次第、恒貞を東国へ奉じる旨が記されていた。歴史上、危急に際して東国へ向かうという事は、東国の兵を頼みにするという事に繋がっていた。
 恒貞の立場は非常に微妙なものであった。恒貞の父は淳和天皇であり、嵯峨天皇の弟にあたる。またこの時の天皇は仁明天皇であり、退位した嵯峨上皇の皇子であった。恒貞は嵯峨の意向もあり仁明の皇太子に定められていたが、仁明は己の皇子を皇太子にと望む様子があった。この事から、淳和と恒貞は後々継承争いに巻き込まれるのを恐れ、皇太子の地位を辞退してきたが、その度毎に嵯峨に慰留されていた。そして今、父の淳和は崩御し、後ろ盾であった嵯峨もまた、重篤の床に着いていた。
 阿保は健岑の熱心な勧誘を一通り聞いた上で、熟考する旨を伝えて一度帰した。帰り際、健岑は、
「皇太子様も、親王様をこそ頼りにされております」
 と、しつこいまでに頭を下げていった。その目は、最後まで嫌らしさに彩られていた。
 先の事実からも、阿保には健岑がいうように恒貞が東国へ向かう事を望んでいるとは思えなかった。おそらく、恒貞が皇統を継ぐ事で利権を得る筈の者達が嵯峨の崩御により発生する廃太子の危機を恐れて暗躍し出したのだろうと思えた。
 ともあれ、こうして賽を振るう権利を得た以上、阿保が第一に考えたいのは恒貞の事だった。なんとしても、最悪の結果だけは避けなければならない。一番頼りとしたい嵯峨が床を離れられぬ以上、全てを嵯峨の皇后である太皇太后橘嘉智子に委ねようと阿保は考えた。彼女であれば、嵯峨の意向も踏まえた上で、きっと最善の判断を下してくれるだろうと思えた。
 一通り今後の考えは纏まったが、阿保は強烈な疲労感に襲われた。
――この世はまったく争いが絶えぬ。なんと、無情であろうか。
 顔を両手で覆い、しばらくの間動けなかった。

 時は承和九年(八四二年)。こうして後に『承和の変』と呼ばれる一連の事件は、阿保の手により動き出した。

 事件の三ヵ月後、阿保は急逝した。

(2007/12/10)

京都にての人々「阿保親王

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