永観堂(禅林寺)

~見返り阿弥陀~

<登場人物>
・津山志郎(ツヤマシロウ)・安芸仁(アキヒトシ)

 

 見られている、そう感じた瞬間。
――志郎、おそし!
 声が聞こえた。
 それまで平静だった心中が嘘のように、感情の大きなうねりが襲い、阿弥陀如来から目が離せなくなる。
 その表情は、言葉通りに志郎を叱責していた。
 心臓を鷲掴みにされたようで、無性に体の震えを覚える。けれど、それは恐怖などではなく強い自戒の念。
――自分は今、立ち止まってしまっている!

 車窓の景色は、川面のように無為に流れていく。目に映るものに意味などなく、志郎に訴えかけるものは何もなかった。
「おい、津山、着くぞ」
「あっ、ああ」
 津山志郎は、安芸仁の声に我に返った。
「いつまでも、辛気臭い顔をするな」
「そうか?いたって元気だけどな」
「まぁ、いい。例のものを見たら、きっとお前も活力が漲るから。いや、漲らせずにはいられなくなるからな」
「はは、どうだろうな・・・」
 安芸の元気に、志郎は曖昧に答えた。
 二人は京都に来ていた。志郎にとっては高校の修学旅行以来7年振りの京都だった。
 バスを降り、安芸は志郎を先導する。
「こっちだ」
 すぐの信号を渡って路地に入る。
 晩夏の頃。残暑に汗も流れる。時刻は午前10時過ぎ。昨日の酒が、まだ少し残っていた。
「明日の予定は、まず永観堂に入ってから南禅寺に行って、昼に湯豆腐を食べる。それから哲学の道を北上して、銀閣寺周辺に出る。こんなもんでどうだ?」
 昨晩、酒を酌み交わしながら安芸が立てた本日の計画だった。中でも安芸が熱心に勧めたのが永観堂だった。
 安芸がガイドブックの紹介文を読み上げる。
「平安時代初期、空海の弟子真紹僧都によって開かれた寺で、正式には禅林寺という。永観堂という通称は、中興の祖である永観律師を敬い名付けられたものである。永観堂の見所は本尊の見返り阿弥陀と、秋の紅葉――」
「秋の紅葉には少し早いな」
「いいんだよ、この時期で。紅葉の時期は確かに綺麗だけど、それ以上に人の頭を見にきたようなものだったよ」
「そんなに凄い人なのか?」
「凄い。京都を甘く見るな。それに今回は紅葉じゃなくて、もう一つの見所、阿弥陀如来をお前に見せたいんだよ」
 安芸は志郎に言い聞かせるように語ったものだが。
 志郎は、人出に関しては自分の考えは甘いのかと妙に納得してしまったが、仏像に関しては何をそんなに大袈裟な、と安芸には悪いが関心が持てなかった。
 二人は大学時代からの友人で、志郎にとって安芸は親友と呼べるに相応しい人間だった。今回の旅行にしても仕事に思い悩む志郎の姿を見て、安芸が気晴らしにと誘ったのが切っ掛けだった。安芸は元々関西の出身で京都にも詳しく、志郎は万事を任せていた。
 住宅街を抜け、僅かに屈折した道を行くと、正面に寺院の門が見えてきた。
 門を潜り、石畳の参道を抜け、更に門を前にする。ここで拝観料を支払い、永観堂内へと入っていった。
 さすがに紅葉が見所というだけあって、まだ青々としている楓の木が多い。
 敷地のすぐ隣には幼稚園があり、子供の無邪気な青い声が響いている。
 玄関に着くと、お寺の人が、
「いらっしゃい」
 と二人を迎えた。
 靴を脱ぎ、順路と朱墨で書かれた立て札に従い、建物内を見学する。
 見所としては襖絵が多い。中でも二人の関心を惹いたのは、釈迦堂虎の間に描かれた長谷川等伯による竹虎之図だった。その構図は二虎が太極図を模し拮抗の場面を演出し、湾曲する一本一本の線が虎に見事なまでの躍動感を与え、息を飲むばかりの緊迫の瞬間を表現していた。
「凄いな」 
 二人は同じ感想を持ち、唸った。
 釈迦堂を過ぎて御影堂を回りこみ、臥龍廊を辿る。臥龍廊は山肌を登るように設置され、その廊下を辿れば、歩いてきた釈迦堂や御影堂を眼下に見下ろす事になる。
「紅葉の時期には、ここからの眺めがいい」
 安芸が感慨深げに呟いた。志郎も実際に紅葉を眺めた訳ではなかったが、想像の中で同感だった。
「まっ、紅葉は諦めるしかないけど、この先でもう一つの見所、見返り阿弥陀がお待ちかねだ」
 言いつつ、安芸が先に歩き出す。
「例の横を向いた仏さんだろ」
 志郎は後に続いた。
 順路に従い阿弥陀堂を右に回りこみ、正面の敷居を跨ぐ。
 阿弥陀堂は広くもなく、かといって狭さを感じるほど乱雑とはしておらず、正面の須弥壇の中、金色の阿弥陀如来像がライトに照らされ輝いていた。
「あれか?思ったよりも小さいな」
 パンフレットのアップに撮影された写真が先入観としてあっただけに、志郎は肩透かしをくらったような気分だった。更に確かに阿弥陀如来像は横を向いているが、正面から見た第一印象としては、ただ横を向いているだけの奇抜な造りであるだけが特徴のように思えた。奇抜さから言えば見所なのだろうが、志郎はその価値を見出すことができなかった。
 安芸が正面に設置された解説文を読むために座ったのにあわせ、志郎も腰を下ろした。
 二人の他に観光客はいない。堂内は静かで、外の園児の声だけが遠くに相変わらず響いている。
 二人は説明書に目を走らせた。
――永保2年2月15日の早朝、永観律師がいつもの通り、一心不乱に念仏行道をしておられると、本尊の阿弥陀仏が壇上より降り、先導する様に行道をはじめられたので、夢ではないかと不思議の思いに立ちどまると、それを見とがめられた阿弥陀様が、左に見返りつつ「永観おそし」との呼びかけに、ふと我に帰って、まのあたりに顧みておられる尊容を拝して「奇瑞の相を後世永く留め給え」との願いを聞き届けられたと伝える――
「横を向いているのはそういう訳か」
 志郎は妙に納得できた。ただ意味もなく横を向いていた訳ではなかったのだ。けれど、それ以上の感慨は抱かなかった。良くある戒めの伝説だな、と。
「さてと、こっちだ」
 勝手知ったる安芸が、ここでも先に立って部屋を右に回り込む。
 部屋の奥には永観律師の像等が安置されているが、安芸はその手前で振り返ると、
「津山、ここから阿弥陀如来の顔が拝んでみろよ」
 須弥壇の横合いを指差した。
 志郎は安芸の視線を追った。見上げる形で須弥壇を横から眺める。須弥壇の側面には長方形の窓が開けられていて、阿弥陀如来が、志郎を見下ろしていた。

――志郎は、阿弥陀如来の声を聞いた!

「どうだ、聞こえたか?」
 阿弥陀如来に魅入られた志郎の横に立ち、安芸は合掌の上、志郎の顔を窺った。
 志郎は呆けたように頷く。
「ああ」
「そうか、やっぱり聞こえたか」
「どういう事だ?」
「俺に聞かなくてもわかっているんだろ?」
「・・・うん」
「俺も前に、ここから阿弥陀像を拝んだ時に、声を聞いたんだ。おそし、ってな」
 志郎は答えずに、静かに唇を噛み締めた。
「俺が考えるに、阿弥陀如来の声が聞こえる人間ってのは、己の怠慢を承知しつつも、見逃している人間。心当たりはないか?」
 志郎は耳が痛かった。
 志郎は企画制作を行う小さな広告代理店に勤めていた。最近、ある企画を提案し見事に許可を得たのだが、詰めが甘い部分があり上手く企画を進める事ができないでいた。改善しようにも良い案が浮ばず、八方塞の感があった。駄目かもしれない。そんな弱気が志郎の心を支配していた。
「お前、よく仕事の事を俺に愚痴っていただろう。それを聞いていたらな、きっと俺と同じように聞こえるだろうと思ってな。だから、ここに連れてきたかったんだ。津山、おそし!お前はまだまだ力を出し切っていないよ」
 安芸は志郎の肩を力強く叩いた。
 志郎は己の情けなさと、安芸の思いやりに泣けてきた。
「・・・そうだな」
 涙は志郎の視界を滲ませるが、心には一条の光が射していた。光は歩むべき道を指している。実はその道は以前から知っていた道。けれど、自分への甘えから歩む困難に躊躇していた道。答えは目の前にあったのだ。行く手を塞いでいたのは己の怠惰。
 志郎は、間違いなく阿弥陀如来の声を聞いた。
 真摯な気持ちで阿弥陀如来に手を合わせる。
 安芸は無言で更に志郎の肩を叩き、
「次はこっちだ」
 と、志郎を今度は反対側へ導いた。
 阿弥陀如来を仰ぐ。当然の事ながら、阿弥陀如来は志郎を見ない。けれどその姿に、志郎は先ほど以上の強いメッセージを受け取った。この後ろ姿こそ、見返り阿弥陀の真実の姿のように思えた。
――この先は自分次第だ。
 叱責された自分はすでに新たな第一歩を踏み出し、阿弥陀如来を追い越してきたのだ。
 阿弥陀の後姿は、見る者に己の成長を悟らせる。
「もう阿弥陀如来は声をかけてこないけど、きっとそれは信頼の証しなんだろうな」
「迷惑ばかりはかけてられないって所か?」
「そういう事だ。どうだ、京都くんだりまで来た甲斐があっただろう」
「ああ。ありがとう」
 志郎は安芸に感謝し、阿弥陀如来に感謝した。
 最後に、お堂の正面に回りこむ。そこには永遠に遅れる者を見守る阿弥陀如来の姿があった。始めは造りとしての奇抜さしか感じなかったが、こうして一回りして自戒とその先の成長を促されると、その姿に身近さと親しみと、そして懐かしさ覚えた。それはまるで、学生時代に世話になった先生の変わらぬ姿を卒業後に眺めているような感覚に似ているだろうか。
 改めて志郎は手を合わせる。これからは、進むべき道を真っ直ぐに進んで行きますと。
「さっ、ちょっと早いけど、早速湯豆腐を食べに行くか」
「もう食べるのか?」
「せっかく来たんだ。楽しもうぜ」
 安芸は志郎の肩を抱き、無邪気に笑った。
 志郎も釣られて笑った。

(2007/12/10)

永観堂(禅林寺)ホームページ⇒http://www.eikando.or.jp/

京都にての物語紀行「永観堂

京都にての物語トップへ トップページへ