京都御苑
~贅沢空間~
<登場人物>
・父親 ・息子
「居心地が悪いから――」
とは、さすがに言わなかったが、態の良い理由を付けて外出しようと思い立った。
独り、年季の入った黒光りする廊下を玄関へ向かって歩くと、途中の部屋でスマホを操る息子の姿が見えた。自分だけ外出する後ろめたさから息子を誘ってみると、鈍い曖昧な反応が返ってきたが、スマホの画面を覗き込んだままのっそりと立ち上がったところを見ると、どうやら誘いに乗ったようだ。
家の人間に声を掛け自転車を二台借りると、父親は息子を連れて京都の街に出た。
法事で戻ってきている地方に暮らす三男坊。それが父親の立場だった。
大学進学と共に家を出た父親が実家に戻るのは稀だった。自分から家に近付くのは避けていた。理由は単純に「居心地が悪いから」。現在は長兄が家業を継ぎ暮らしており、帰れば近況を訊かれ、それに答えるのが面倒だった。どうせ答えれば、一つ二つの小言を言われるに決まっているから。
今回もまた、案の定同じ展開。だから極力、家にはいたくなかった。
息子を後ろに従え、父親は行き先を思案した。どこか喫茶店にでも、と思ったが、初秋の京都は天気が良く、半袖一枚で過ごせる陽気でもあったので、屋内に引きこもるのも勿体なく思え、久し振りに思い出の場所へと向かうことにした。
途中から烏丸通に出て北上する。丸太通に近付くと、右手前方に隆々と生い茂る緑の連なりが見えてきた。丸太通の交差点を渡り、右にハンドルを切って緑の連なりを左手にしてから、すぐのところでハンドルを左に切って、その緑の連なりの中へと入っていく。
親子は間ノ町口から京都御苑の敷地に入った。
そのまま豊富な砂利の上を右手の九条邸跡に沿って進むが、途中でバランスを崩しそうになったので、降りて自転車を押すことにした。息子もそれに倣う。
建礼門前の大通りに出ると、視界が一気に開ける。北に向かっては大通りが遠く建礼門まで伸び、視界を遮るものは何もない。また東に向かっては富小路方面への通りが伸び、こちらも奥行き深く、視界が通っている。その二本の通り以外の空間には緑の木々が低く視界を埋め尽くし、その上部から突き出るような人工物はなく、後はひたすら雲がまばらに浮かぶ青の高い秋空が広がっている。
大通り南端に設置された幾つかのベンチの内の一脚が空いていたので、父親は自転車を停めて腰を下ろした。息子は父親の反対側に自転車を停め、大きな間をとって反対側の端に座った。丁度突き出た背後の木々が日除けとなって陰を作り、涼しい風が通って気持ちよかった。他のベンチにも、それぞれ憩う人々の姿があった。
父親は一息吐いた。丸まった背中のまま背もたれに寄りかかり深呼吸をする。緑の香りを微かに感じた。
父親にとっての思い出の場所は京都御苑。高校受験を控えた頃から家に居辛くなり、行き先が特にない場合は決まって京都御苑を訪れ、建礼門の上に浮かぶ北山を遠く眺めやっては様々な煩わしさを忘れ、独りの時間を楽しんでいた。
今も眺める景色は、当時とほとんど変わっていない。父親の心は、次第に穏やかなものへと変わっていく。
が、そんな安らかな独りの時間は、早々に破られる。父親は最早、一人ではなかった。
「ここって、どこ?ただの公園?」
ベンチの反対側に座った息子がスマホを操りながら視線を落としたままに訪ねてきた。
「京都御苑だよ。正面に門が見えるだろ。あそこが京都御所だよ」
思えば、息子を京都御苑に連れてきたことはなかったか。父親には息子の他に、妻と娘がいて一家族を構成していた。妻と娘は所用から今回は京都を訪れなかったが、普段は一緒にやってきていて、息子もどちらかというと、父親よりは母親と行動を共にすることが多かった。だから息子と二人、こうして京都御苑を訪れたのは初めてだった。
高校二年になる息子とは、最近会話も少ない。こうして二人きりになると、気まずさを覚える。
一方の息子は、父親の回答に返答もせず、スマホの操作を続けている。質問は終わったのかと父親が再び視線を北の空へと向けようとすると、またスマホの画面を見ながら質問を放り投げる。
「京都ギョエンって、なに?」
その質問に戸惑った。
「なにって・・・」
何から話せばいいのか――
「正面に御所があるだろう?その周辺を昔は公家屋敷が取り囲んでいたんだけど、明治期以降荒廃したので、皇室苑地として整備したのが始まりで、戦後に公園として解放されたんだ」
息子は応えずにスマホを操り、また少ししてから質問する。
「天皇って、ここに住んでたの?」
「明治以前はな」
――。
「だから、ギョエンってなに?」
だから?
「御所の『御』に・・・エン・・・エン・・・」
上手い例えが見つからなかったので、父親は自分の携帯電話を取り出し、メール機能を使って文字を変換して息子に示した。
「今は国民公園として解放されているけど、元々は皇室所有の物だったから敬称を以て京都御苑と呼ばれているんだろう」
「なにかあるの?」
「なにかって・・・御所と、大宮御所、仙洞御所あと、・・・京都迎賓館があるぞ」
「じゃあ、行こうよ」
「いや、今日いきなりってのは、どれも無理だなぁ。事前に申し込みが必要なんだよ」
「じゃあ、他には?」
「他には・・・いいじゃないか、この景観があれば――」
スマホを操作する動きは止まらずに、息子の質問は止んだ。
父親も黙った。気まずさは今も解消されずに。
やがて、ようやく息子が顔を上げた。父親は、ビクンッと体を反応させた。
「なんかさぁ、父親だったら、もっといい所に連れてってよ。これじゃ、なんの話題にもならないじゃん。折角京都にきてるのにさぁ、しかも地元でしょ?少しは父親らしいところを見せてよ」
父親らしい・・・って言われてもなぁ、と父親は思う。
「大体、ここなに?ただ、だだっ広いだけで何もないってどういうこと?ってかさ、こんな街のど真ん中にこんだけの土地があったら、もっと有効活用した方が経済にはいいんじゃね。なんか無駄。すごく勿体ないよね」
勿体ないって・・・と、父親は思う。
「なんもないんだったら、俺行くわ」
「行くって・・・どこに?」
「お土産。色々リクエストがあるんだよね」
息子の視線はすぐにスマホに戻り、立ち上がって自転車の横に立った。
「場所はわかるのか?」
「地図あるから」
とスマホを僅かに持ち上げるようにして翳し、何かを確かめるように一度だけ周囲を見渡すと、自転車に乗って砂利によろめきながら入ってきた間ノ町口に消えて行った。
父親は息子を見送ると、改めて背もたれにありったけの体重を掛けるように寄りかかり、両手を後頭部に回して建礼門、北山、その上空を遠く眺めた。
車のクラクション音が霞んで聞こえた。
小さく、けれど通りよい甲高い小鳥の鳴き声が耳に届く。
一瞬強く吹いた風が、周囲の樹木をざわつかせた。
その後に続く、静寂。
視界が開けているが故に、多くの物事がゆっくりと見える。
観光客らしき集団が、大通りを延々と建礼門へ歩いて行く。
距離のある位置を、買い物袋を自転車の駕籠に入れた人が、砂利に車輪を取られることなく慣れた様子で通り過ぎるのも、またゆっくりだ。
雲は緩慢に流れ、その一部が太陽を遮り作り出された影が、敷地に敷かれた白砂利や連なる木々に、陰陽のコントラストを描き、ゆったりと移ろいゆく。
時に視界の変化が乏しく、時間が止まってしまったような錯覚を覚える。
それは、忘我の一時。
取り残された父親は――
「わからないかなぁ。この空間こそが、贅沢なのに」
独りの時間を、楽しんだ。