「花の下臥」

<登場人物>

・大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)

時代:江戸期

 

 日は、はや山陰に隠れ、辺りの闇は深くなる。
 山間の小屋の戸が小さく叩かれ、建て付けの悪さにガタゴトと響く。
「もうし」
 外からの呼びかけに、貧相な顔の家主の男は返事もなく億劫そうに戸を引いた。
 家主の前に、もうすを被り墨衣を纏った一人の尼が、齢重ねながらも色白の品の良い容貌に微笑みを湛え立っていた。
 家主はいぶかしげに眉間に皺を寄せるも、問いもしない。
 尼は深く頭を下げてから家主の顔を見上げると、
「夜分に申し訳ありまへんけど、手持ちもなく行き暮れてしまいまして、どうか一晩のお恵みを頂けまへんやろか」
 家主の眼を見詰め、意向の伺いを立てた。
 家主はいぶかしげな表情のまま尼の姿を観察しているようだったが、こんな日暮れの山間に一人佇む尼を人ならずと怪しんだか、警戒心に顎を引き、首を細かに横に振ると、
「他をあたってくれなはれ」
 と、にべもなく戸を閉めてしまった。
 他をあたれと言われても、見渡す限りに明かりは見い出せず、月明かりばかりが僅かに生い茂る草の足元を照らすばかりだった。
 家主の態度に再度の懇願を諦めた尼――大田垣蓮月尼は、とぼとぼと小屋を後にする。
 空腹を覚える。思えば、昼餉の粥のおかずにしようと豆腐を買いに出たのだった。ところが、道のりの春の陽気に吉野の桜を思い出し、足をそのまま吉野へ向けてしまったのだ。きっと火を掛けたまま出てきてしまった粥は焦げ付いてしまっただろう。勿体ないことをしてしまったなどと今更思う。
 行くも戻るも同じならば、足はそのまま吉野へと向ける。
 闇の中を行く。
 とても静かで、土を踏みしめる足音、衣擦れの音、呼吸する音、全て自分一人が発する音のみを耳にするばかり。虫の音、鳥の夜鳴き、木々の囁きさえ届かない。意識範囲の冴えた空気が、否応なく蓮月に孤独感を突き付ける。
 突き付けられた孤独感は、その反対の感情――蓮月にとって孤独ではなかった頃の、かつて自身の傍にあった人々の姿を思い出すようそそのかす。
 最初に脳裏に浮かんだのは、一人目の夫の姿。蓮月が結婚したのは十七歳の頃。夫との間には三人の子に恵まれ、一時の幸せを得た。けれど、次第に夫は放蕩に溺れ離縁に至り、その後に没し、また三人の子も幼くして夭折してしまった。
 次に二人目の夫の姿が浮かぶ。再婚したのは蓮月が二十九歳の頃。夫婦仲が良く、二人の子も授かった。蓮月にとって最も幸せな日々だった。けれど、結婚四年で夫は病死し、二人の子も幼くして夭折してしまった。
 最後に養父の姿が浮かぶ。貰い子であった自身を、愛情を以て慈しみ育ててくれた養父。いつも傍にあって、温かく見守っていてくれた養父もまた、蓮月を置いて先立ってしまった。蓮月が四十二歳の頃。
 そして蓮月は、天涯孤独の身となった。
 蓮月は今、一人この世に取り残された己の境遇を歩いているような錯覚に陥った。心細さに立ち止まり、身を竦めたくもなる。
 けれど、蓮月は歩み続けるしかなかった。
 やがて、道端のなだらかな斜面の先の丘に、一本の桜木を見出した。満開とはいかないまでも、全体に花弁を開き、月明かりを浴びておぼろげに闇に浮かび上がるような姿。
 蓮月は一旦立ち止まってその姿を確認すると、いそいそと道を外れ桜木の下に立ち、目を細め、頬をほころばせ見上げた。
「綺麗やなぁ」
 気が和んだ。すると、体の疲労を覚えた。と同時に、宿を探す拘りを捨てた。
 蓮月は桜木の下の草むらに程よいところを見付け、身をゆっくりと仰向けに横たえた。横たわってすぐは背に地面の冷気が伝わるも、次第に生い茂る草が蓮月の体温に温められ、伝わる冷気を遮断してくれた。山間の空気は冷えつつあり快適とはとてもいえないが、耐えられないほどではない。
 視界には――一面の闇夜の画幅の中、白く淡く浮かび上がる桜木の花弁が自然の差配で広がり、その傍ら重ならないように薄雲に包まれた朧月が、主題と映る花弁を引き立たせるように、控えめな、静謐な輝きを滲ませていた。
 その光景は、長年自然を愛でてきた蓮月にとっても、初めての体験だった。
「あら、綺麗やなぁ」
 ふと、先ほど一宿の恵みを断った貧相な家主の顔が思い浮かぶ。まぁ、なんと無情な面構えだろうと思ったものだが、こうして新たな体験に感動を覚えると、無情も情けに変わり、孤独の闇も明らむ。
――なんとも、この世界は美しいのやろう。
 視界の幽玄なる光景に、蓮月の全身の感覚は溶け込んでいった。

『宿かさぬ 人のつらさを 情にて 朧月夜のはなの下ぶし』

(2016/02/21)

京都にての人々「大田垣蓮月

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