「鬼神」

<登場人物>

・前田慶次郎利大(まえだけいじろうとしおき)

時代:安土・桃山期

※この物語は京都が舞台ではありません。

「9月15日、関ヶ原にて、石田三成殿率いる西軍、敗れました!」
 天下分け目の関ヶ原。その報告が最上領、長谷堂城を攻撃していた上杉家筆頭家老、直江兼続の元に届けられたのは、9月29日の事だった。これは上杉家にとって絶望的な報告だった。
「兼続様、いかがなされます?」
 配下の将にそう問われると、兼続は苦りきった表情を表したが、すぐに判断を下した。
「城の囲いを解き、撤退する」
 上方での決着がもはやついたというならば、いつ徳川家康がとって返し、会津に攻め込んでくるとも限らない。今はできるだけの将兵を無傷で会津に返し、領土の守りを固める事が重要だった。
 そのために兼続は自ら殿(シンガリ)をかってで、2万の兵を会津に発たせた。
 直江兼続勢、3千。これに対する最上義光・伊達勢は2万であった。兼続は追撃に来る約10倍もの相手を食い止めつつ、撤退をしなければならなかったのである。
 戦いは壮絶を極めた。10月1日の早朝からの戦いは、約10時間に及び、僅か6キロの間に28回の戦闘が行われるというものだった。
 最上・伊達勢は数を頼りに押してくるが、兼続は要所要所、巧みに鉄砲隊を待ち伏せさせ、頑強に抵抗を試みた。
 しかし如何せん、兵力差があり過ぎた。兼続勢は次第に負傷者、死者が増え、敵の攻撃を防ぐのが困難になってきた。
 やがて兼続は、敵に首をとられるならばと自決を決意する。
 脇差を抜き、腹に当てようとしたその時だ。
「兼続殿、待たれい!」
 巨大な馬に乗った1人の武将が現れた。
「慶次郎殿・・・」
 兼続の視線のその先には、前田慶次郎の荒ぶる姿があった。
「心せわしき大将かな。そんな弱気でいかがする」
 慶次郎は馬から降りると、兼続を諌めるように脇差を奪い取った。
 前田慶次郎利大。前田利家の甥にして、現在は上杉家に2千石で仕える家臣。文武両道の勇将であり、その奇行の数々から“かぶき者”として全国に名を轟かせていた。
「しかし、もはや・・・」
「それが弱気と申す。兼続殿らしくもない」
 慶次郎は自分の手で兼続から奪い取った脇差を鞘に収めると、兼続に手渡した。
「ここは拙者にまかされよ」
 そう言うと慶次郎は愛馬“松風”の背に戻った。
「まかされよと? しかし、どうするつもりで?」
 どうにもならないからこそ、兼続は自決までをも決意したのだが。
 すると慶次郎はニヤリと不適に微笑むと、
「なに、丁度その辺りに最上勢の本陣が迫っておるゆえ、最上義光の首級をいただくまでの事」
 慶次郎はさらりと言ってのけた。しかし、兼続にしてみればただ唖然とするばかりである。最上義光は、敵方の大将なのだ。
 兼続は無謀を諌めようとして慶次郎の下に歩み寄ろうとしたが、慶次郎はそれを遮ると、
「さっ、兼続殿は早々に立ち退かれよ」
 朱槍を構え、雲霞の如き敵陣を遠く眺めやった。
「人間、生きるだけ生きたら死ぬものでござる。拙者がここで死ぬ運命にあれば死にもしましょうし、生きる運命にあれば、生きもしましょう。ただそれだけでござる」
 慶次郎は兼続を振り返った。それはとても戦場で見せるような笑顔ではなかった。とても涼やかな、澄んだ微笑み。
「慶次郎殿・・・」
 兼続に慶次郎を留める言葉はなかった。
 慶次郎はゆっくり頷くと、腹の底からの大音声を上げた。
「まだ耳の穴がある者、よく聞け! これより、最上義光殿の首級頂戴しに参る! 我と思うものは拙者について参れ! なに簡単な事だ、敵陣を一直線に進むだけでいい! そうすれば、おのずと義光殿を討てようぞ!! それ、参るぞ!!!」
 颯爽と駆け出す慶次郎。その後を、数十、数百の命知らず達が追いかけた。
「おおおおッ!!!」
 その様を呆然と眺めていた兼続ははたと我に返ると、
「鉄砲隊、ありったけの弾を撃て!あの者達の道を作るのだ!!」
 右手にした采配を、大きく振るった。

 前田慶次郎の働きは目覚しく、この突撃によって兼続勢は、2万の最上・伊達勢をなんと敗走せしめた。
 直江兼続、前田慶次郎両名は、無事に最上領から引き上げに成功したのである。

 この戦いにおいて、前田慶次郎はまさに『鬼神』の如しであったという。

(2007/12/10)

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