「駒姫」

 

 駒姫と京都を語ろうとすれば、それはすなわち悲劇となる。
 なぜならば、駒姫にとって京都とは、死に場所以外のなにものでもないからだ。

 駒姫、別名お伊万の前は、山形の戦国大名最上義光の次女として生まれた。最上義光の妹の義姫が伊達政宗の母であるから、駒姫は政宗の従妹ということになる。
 成長した駒姫は、その美貌により「東国一の美人」と噂されるようになったという。その噂は、やがて時の関白である豊臣秀次の耳にも届くこととなり、また天正19年(1591年)に起きた九戸政実の反乱の際に山形城に立ち寄った秀次が接待に出た駒姫を見初めたという説話も残るが、その真実はともかくとして、色を好む権力者の欲求として秀次は義光に対して駒姫を側室に迎えたい旨を申し入れた。
 これに対して義光は消極的であったというが、時の権力者の申し出でを断るのは難しく、また権力者との結びつきを打算したところもあったのだろうか、この申し出を受け入れ、文禄4年(1595年)7月初めに駒姫は上洛した。時に15歳と伝わる。
 ところが、同月の15日に、駒姫が仕えるべき秀次が豊臣秀吉より謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自刃してしまったのだ。この時、駒姫は一度も秀次にお目見えしていなかったという。
 豊臣家の後継問題に端を発すると思われる秀次事件の流れは、当の本人の秀次の切腹だけでは終わらなかった。どれほど伯父である秀吉は甥の秀次を憎んでいたのか、それとも憎むように仕組まれたのか、秀吉は秀次の妻子側室をもを処断するよう命じたのだ。そのリストの中に、上洛したばかりの駒姫も含まれていた。
 これに父である最上義光は助命嘆願に奔走したが、秀吉は許さず、義光自身も秀次に連なって閉門謹慎となってしまった。
 翌月2日。駒姫は他の妻子側室達と共に白装束に身を包み、牛車にて市中を引き回された上で、刑場である三条河原へと送られた。
 まず秀次の子が殺害され、それから側室達が次々と斬られていった。
 駒姫は11番目と伝わり、己の身を襲った不条理に取り乱すことなく、従容と刃に散った。
 後に処刑場の跡地に角倉了以によって建立された瑞泉寺の縁起によれば、淀殿からの助命嘆願を受けて、初めて秀吉は「鎌倉で尼になるならば」と認めたという。しかし、その急使は処刑に間に合わなかったのである。
 瑞泉寺の縁起によれば、辞世は、
「罪を切 る弥陀の剣に かかる身の なにか五つの さわりあるべき」
 また別に『太閤記』では、
「うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に すまでぞかへる 白川の水」
 とも伝わる。
 この処刑により、継室・側室含め34人の上臈の命が奪われ、彼女らの遺骸は親族の嘆願にも関わらず刑場に掘られた穴に無造作に落とされ埋められ、その塚の頂上には秀次の首が石櫃に収められ「畜生塚」と名付けられた。

 駒姫が見た京都とは、一時の夢であったろうか。

 関連作品:京都にての歴史物語「弥陀の剣
 関連作品:京都にての物語「瑞泉寺~憎まず、恨まず~
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(2012/12/27)

<駒姫縁の地>

 ・駒姫をはじめとする、秀次事件に連座した者のお墓がある。
  瑞泉寺

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