瑞泉寺

~憎まず、恨まず~

<登場人物>
・保田豊美(ヤスダトヨミ)・久松香保(ヒサマツカホ)

 

 時は文禄4年(1595)7月。豊臣秀吉の後継者として関白を継いだ豊臣秀次が、謀反の疑いありとして拘束され高野山に送られた後、7月15日に切腹を命じられて果てた。だが秀吉の怒りは収まらず、翌8月2日、秀吉は幽閉していた秀次の上臈や子供達を三条河原に引き出し皆殺しを命じた。その数、子供が5人。上臈が三34人。刑場には秀次の首が晒され、その前でまず子供達が、次に上臈達が順番に可憐な花を散らせていった。そして刃にかかった者達は一様に一つの墓穴に折り重なるように放り込まれ、無残に打ち捨てられた。その様子を見守った人々は余りのむごさに眼を伏せて涙したという。墓穴はやがて埋められ、更に盛り土をして塚が築かれ、その頂上には秀次の首を入れた石棺がおかれ、名付けて「畜生塚」と呼ばれた。
 それから16年。高瀬川の掘削事業にあたっていた角倉了以が荒れるに任せた塚の姿を哀れみ、秀次一族の菩提を弔う為に塚があった場所に寺を建立し、瑞泉寺と称した。

 秀次一族の墓所の半ばでしゃがみこんだ保田豊美は、怒りを抑えかねて久松香保に訴えるように声を荒げた。
「大体さ、秀吉が馬鹿なんだよね。秀頼に家督を継がせる為って言われてるけど、要はボケ老人の若さに対する嫉妬なんだよ。周りの信望を得つつあった秀次に老い行く自分の姿を重ね合わせて、憎しみを覚えたんじゃないの。秀次の上臈達を皆殺しにする中で、秀吉は秀次の正室は見逃しているの。なぜ正室は助命されたかと考えると、殺された上臈達との違いは、秀吉が与えた女ということ。それに比べて殺された上臈達は、秀次が選んだ女だということ。つまりこの虐殺は、嫉妬に狂ったボケ老人の権力者が嫉妬相手の存在を完全否定する為の所業だったって訳よ。最低!」
「それと秀次も悪い!何人女を側に置けば気が済む訳?そもそも側室なんて持たなければ、こんな大虐殺にはならずに、彼女達は命をまっとうできたかもしれないのに。色を好むにも程がある!」
「だから男って!――」
 香保は自分の知識に乏しい世界で憤られてもフォローする手立てが浮ばずに困ってしまったが、豊美が抱いた感情の根源に思い当たると、気の毒さを覚えた。そしたら余計にどう言葉を返していいかわからなくなってしまった。
 瑞泉寺を訪れたのは偶然だった。仕事の休みを利用してたまに訪れる京都の、町並みを歩いて回るのを楽しみとする豊美と香保は、幸いにも陽射しが雲に隠れた初夏の空の下を、三条通から先斗町を抜けて四条に出ようとしていたところ、高瀬川を渡って南に下る左手に、門扉を開いた瑞泉寺を見出したのだ。石碑に立派な字体で『豊臣秀次公之墓』と刻まれ、右手の門の庇には桐紋の提灯が吊り下げられていた。
 香保は秀次の名を知らず、歴史に詳しい豊美に、
「秀吉の甥っ子で、秀吉の次に関白になった人」
 と説明を受けたが、それでもまったく記憶になかった。
 一度来ようと思っていた、という豊美の希望に任せて入った境内の、建物の一角を開放した資料室で、香保は秀次事件の顛末を資料の記述と豊美の説明で知った。初耳のその事件は、余りにも悲劇的だった。中でも秀次にお目見えさえもしていなかった駒姫が連座した逸話には香保も聞いていて辛くなった。
 二人は資料室を出て、狭い境内の南西の隅にある秀次一族の墓所に向かった。
 墓所は境内の一角を石杭で囲み、中央奥にある秀次の墓石までを竹柵と石畳で参道としていた。そしてその外側、秀次の墓石を囲むよう墓所の左右一杯に、子供や上臈達の同形状の墓塔が整然と並んでいた。
 香保はその光景に、薄ら寒さを覚えた。特に秀次を囲む墓塔の石肌はあまりにも白々とし、事件の話を知ったばかりの為かさぞや無念であったろうと思うと、その石肌を元に想像する上臈達の顔色は、無表情で色褪めていた。膨らんだ想像は、香保に秀次を取り囲むモノクロで無感情な上臈達の一団を幻視させ、墓所へ足を踏み入れるのを躊躇させた。
 そんな香保を置いて、豊美は墓所に入ったのだった。すぐには秀次の墓石の前には行かず、半ばで立ち止まってしゃがみ込み、上臈達の墓塔をじっと見回していた。実は豊美も香保と同じような映像を幻視していた。悲しみや憤りよりも、深い諦めに感情を失った面々。そうならざるを得なかった哀れさを思うにつけ、彼女達をこんな境遇に追い込んだ秀吉や秀次に対する怒りが込み上げてきた。そしてその怒りの火は豊美の心理の導火線を走り、ある男へ対する怒りとなって爆発した。
 かつて、豊美は妻子ある男性に恋をした。相手の男性も豊美を気に入り、二人はやがて深い関係となったが、数年を経て豊美が行く先に不安を覚え始めた頃、突然男性は豊美に別れを告げて妻子の元に帰ってしまったのだ。結果的に都合よく遊ばれて捨てられたこの経験が、豊美の心に深い傷を残し、男性不審を招いた。だからこそ、男達の争いに巻き込まれ翻弄された上臈達により強い感情移入をし、上臈達の代わりとばかりに悪態を吐かずにはいられなかったのだ。
 香保も豊美の気持ちを察した。幾つもの慰めの言葉が頭を巡るが、どの言葉もそれこそ白々しく思え、下手に慰めるよりも豊美の怒りを吐き出させてしまうのが一番のように思えた。
「そうなんだ・・・。やっぱりさ、出るのかな、ここって?」
 と、香保は脱力した両手を胸の辺りで控えめにプラプラとさせた。悲劇→恨み→幽霊という簡単な連想からくる、不謹慎ではあるが、香保が墓所を前にして感じた正直な感想だった。香保は、当たり前じゃない!恨みの一つや二つあって当然でしょ!という豊美の賛同を期待した。
 だが、豊美は予想外の反応を示した。香保の言葉に突然首を傾げると、考え込むように視線を虚空に泳がせた。そして立ち上がり、一度秀次の墓石を眺めてから香保を振り返った。
「私が調べていないだけかもしれないけど、この事件で殺害された人で、幽霊の噂が立った人は誰もいない」
 香保には拍子抜けだったが、豊美にとっては今まで考えてもみなかったことで驚きだった。確かにこれだけの悲劇にも関わらず、なぜ噂の一つもないのか。
 そもそも幽霊の噂が立つには、そうあってもおかしくないという根拠が必要である。その根拠とは、幽霊となる人物が恨みや憎しみなどの『執着』を抱いていると人々に思われることではないだろうか。これを秀次事件に当て嵌めてみると、噂が立たないということは、人々はこの事件に『執着』を見出せなかったということにならないだろうか。もちろん議論の余地は多々あるだろうが、豊美の思考はそのような結論に達した。
 その時、突然陽射しが差し込み、墓所を明るく照らした。白々としていた石肌に輝きが宿る。すると、先ほどはモノクロであった上臈達の幻影がにわかに色付き、艶やかな衣を纏わせ表情にも優しげなる笑みを浮かべさせた。
 豊美は咄嗟に自分の思い違いに気付いた。上臈達はきっと自分と同じように、己の身に不幸をもたらした男を憎しみ、恨んでいるに違いないと思い、感情移入をして憤ってみたりしたけれど、実は憎しみや恨みに塗れ、色を失ったモノクロで幽霊的な要素を持っていたのは自分の方なのだと。豊美はふと、駒姫の辞世の句を思い出した。
『罪を切る弥陀の剣にかかる身のなにか五つのさわりあるべき』
 絶望に追い込まれた時、上臈達は恨みや憎しみの執着を選ばずに、黄泉路という悲しき道ではあるが迫る現実を見据えたのではないか。最後まで己を律し、その健気な姿には一つの美しさがあった。だからこそ人々は上臈達に執着を見出さず、またそうすることで、上臈達もせめてもの心の平穏を得たのではないだろうか。
 色鮮やかな上臈達とモノクロの自分。豊美は自分よりも、まるで上臈達の方が活きているような錯覚を覚えた。
――私も活きたい!
 豊美は自分を活かすことを願った。その為には抱いている憎しみや恨みを捨てることだと理解した。幸いにも豊美には黄泉路以外の多くの道が残されている。
 豊美は秀次の墓石と向かい合った。先程までの感情であれば、手を合せようなどとは思わなかった。けれど、上臈達が憎んでいないのに、部外者の自分が恨み言を吐いても仕方ないだろう。真に上臈達の心の平穏を願うのであれば、秀次にも平穏であって貰うのが最善と思えた。だから、豊美は静かに手を合わせた。そしてこの行為を、豊美は己の執着を断つきっかけにしようと誓った。

 手を合わせ終えて振り返った豊美の表情は一変して明るくなっていた。香保はその変化に戸惑い笑いかけると、
「香保も手を合わしときなよ」
 と言って、場所を譲った。なんだかわからない展開となったが、香保は豊美の機嫌が直ったことにほっとしつつ、お邪魔します、と墓所に入って一通りの所作を果たした。
 瑞泉寺を出ると、再び雲間から陽射しが射した。豊美は高瀬川を背にはしゃいでみせた。陽射しの下ではしゃぐ豊美の姿は、香保の目に色鮮やかに輝いていた。

(2008/08/06)

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