瑞泉寺

「瑞泉寺」

 

 それは本当にたまたまだった。
 その日は確か、阪急の四条烏丸で降りて京都にての一品で紹介した「竹取物語」を購入する為、御池通にある京洋菓子司ジュヴァンセルの御池店に向かい、その後東山に向かうつもりで三条通を東に向かい、高瀬川を渡ったところで南に方向転換したところ、その左手にお寺の門が写真のように見えた。管理人の習慣として、見付けた寺社の名前は一応確認する。そしたら瑞泉寺とあったので「ああ、ここか」と納得。豊臣秀次一族の墓所があるお寺として瑞泉寺という名前は知っていたが、未だに目的地として訪れたことはなかったので、これ幸いとばかりに中に入ってみた。
 境内は観光寺院というよりも、いかにも地域に密着したお寺という感じで慎ましく、狭い庭の先にはすぐ本堂が建っていた。
 門を入ってすぐに、建物の一角を開放した資料室があった。

 『時は文禄四年(一五九五)七月。豊臣秀吉の後継者として関白を継いだ豊臣秀次が、謀反の疑いありとして拘束され高野山に送られた後、七月十五日に切腹を命じられて果てた。だが秀吉の怒りは収まらず、翌八月二日、秀吉は幽閉していた秀次の上臈や子供達を三条河原に引き出し皆殺しを命じた。その数、子供が五人。上臈が三十四人。刑場には秀次の首が晒され、その前でまず子供達が、次に上臈達が順番に可憐な花を散らせていった。そして刃にかかった者達は一様に一つの墓穴に折り重なるように放り込まれ、無残に打ち捨てられた。その様子を見守った人々は余りのむごさに眼を伏せて涙したという。墓穴はやがて埋められ、更に盛り土をして塚が築かれ、その頂上には秀次の首を入れた石棺がおかれ、名付けて「畜生塚」と呼ばれた。
 それから十六年。高瀬川の掘削事業にあたっていた角倉了以が荒れるに任せた塚の姿を哀れみ、秀次一族の菩提を弔う為に塚があった場所に寺を建立し、瑞泉寺と称した。』
 世にいう秀次事件のあらましと、瑞泉寺の創建について拙作「瑞泉寺~憎まず、恨まず~」から引用してみた。とにかく、戦国期にあっても悲劇といえる事件だった。ちなみに「畜生塚」という名称は、秀次が側室の一の台と、その息女於美屋(おみや)の前の母子共々を寵愛したことから、これを秀吉が「畜生の有様」といって憎んだ為に付けられたと伝わっている。

 墓所は境内の南西にあり。管理人が実際に感じた印象を再度拙作から引用する。
 『――秀次の墓石を囲むよう墓所の左右一杯に、子供や上臈達の同形状の墓塔が整然と並んでいた。――その光景に、薄ら寒さを覚えた。特に秀次を囲む墓塔の石肌はあまりにも白々とし――その石肌を元に想像する上臈達の顔色は、無表情で色褪めていた。膨らんだ想像は、香保に秀次を取り囲むモノクロで無感情な上臈達の一団を幻視させ、墓所へ足を踏み入れるのを躊躇させた』(※小説では必要上触れていないが、墓所には秀次に殉死した10士の墓塔も並んでいる)
 墓所に入ると、本当に囲まれている気がした。その場にずっと留まっていることに不安を覚え、秀次の墓石前にて線香をあげ合掌すると、足早に異様な空間の墓所を抜け出た。当然「不安」とか「異様な」とかいう感覚は管理人の思い過ごしだ。それでも、そんな思い過ごしをしてしまうほどに、それらの死は悲しすぎる。

 今回、上記で引用した作品と併せ「弥陀の剣」では最上義光の娘駒姫を取り上げた。駒姫の悲劇は、この事件の中でも群を抜いているだろう。だがここにもう一人、管理人が気になっている人物がいる。それは於須儀(おすぎ)の前だ。次の記述は瑞泉寺が発行している文献からの引用となる。
 『於須儀の前十九歳、日頃労症即ち肺病に悩み、姿をかえて尼になりたいと願っていたが今はそれもかなわず、世にあるとき数にもならぬ身も憂きにはもれぬことをかなしみて
 ――捨てられし身にもゑにしやのこるらむあとしたい行く死出の山みち――』
 つまりは肺病にてすでに秀次に顧みられなくなっていたにも拘らず、罪ばかりは彼女を見放さなかった訳だ。
 にも関わらず辞世の句にて「――あとしたい行く死出の山みち」と詠う彼女の心情やいかばかりか。

 瑞泉寺。ここには女達の深い悲しみがある。
 もしお立ち寄りの際は、彼女らの心の平穏を願って頂きたい。

 関連記事:京都にての人々「駒姫

(2008/08/07)

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